シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

奄美自由大学 ②

johnfante2007-08-01

徳之島の民俗〈1〉シマのこころ (ニュー・フォークロア双書)

徳之島の民俗〈1〉シマのこころ (ニュー・フォークロア双書)



右は濱田康作氏の写真作品から

十月二九日(土)


第二日目は、闘牛に詳しい遠藤智氏を先達にむかえた闘牛場めぐりの一日であった。
牛ナクサミは五百年近い歴史があり、藩の圧制に苦しめられた農民が、収穫の喜びを祝っておこなれた島で随一のなぐさめであったという。
だから、いまも使われているかどうかは別として、各集落には必ず闘牛場があるようだ。阿三という集落の闘牛場跡などは、現在はヘリポートして使われており、シマンチュ(島人)がもつ発想の自在さがうかがえる。


また、闘牛が東南アジアから伝来したというのも興味深い。
崎原の闘牛場は、鉄製のわくで円くかこわれただけの野天のものだが、その剥きだしで露わになっている感じが、どこか異国の土地に来たように錯覚させる。
奄美自由大学は観光目的ではないので、実際の闘牛を観戦することはなかった。
闘牛場の中に入ると糞がいっぱい落ちていた。二匹の牛が角を突き合わせ、前足を懸命にかく場所なのか、場内の中央に水たまりができている。それが太陽の光を反射して、一つの巨大な目のように私のことをギョロリと睨みつけた。 


亀津の闘牛をやっていない闘牛場で、六十人近い人間がぶらついているのも異様な光景である。
牛がいなくても、それと同等の熱気というか、エネルギーをその場に感じてしまう。その片づかない気持ちを抱えたまま、福田牛舎へとむかった。今度は牛だけを見ようというのだ。
福田一号はまさに横綱の名に恥じない、一トン近い大きな黒牛であった。餌をもりもりと食べる姿を眺めていると、一号の腹にストーンサークルで見た線刻のような筋が何本も走っているのに気づいた。なるほど、と思った。
夕方に舞踏家の中村達哉氏が闘牛場で泥まみれになって踊ったのだが、彼のわき腹にもやはり線刻がきざまれていた。


徳之島


島の食べ物はどれもうまい。
午前中に伊仙町の面縄という集落で、土地の人がつくった菓子をいろいろとご馳走になった。黒糖のフカシモチ、ヤンバンと呼ばれるご飯にヨモギをすりこんだもの、ひらぺったいヒナヤキ、長く伸ばして巻いたフナモチなどなど。意外なことに、私の舌をもっとも喜ばせてくれたのは島のミカンである。集落の人の話によると、このあたりでは厚ぼったい皮のミカンを、色がまだ青いうちに食べるという。


海沿いの道から坂道をのぼっていくと、「奄美ガンジー」と呼ばれる泉芳郎の生誕地がある。
奄美群島は戦後、アメリカの占領下にあったが、泉芳郎ら協議会の人たちの尽力もあって一九五三年に本土に復帰した。また、泉芳郎は名瀬市の市長になった人としても、それから詩人としても知られている。
「疲れた坂道」という代表的な詩に書かれた坂を、私たちは自分の足でのぼっていった。


誰でも「泉」の姓を聞くと思いだすのは、あの一二〇歳まで生きた泉重千代さんのことだろう。
彼もこの島の出身である。徳之島は長寿者の島としても知られている。長寿といえば、二日寝て二日起きる習慣が話題になった本郷かまとさん(一一六歳)もいたが、この食生活にして、海に囲まれた風景、時間が止まったような集落の趣があってこそ、はじめて可能になることだ。
そういう私も一日中歩きまわり、島料理を食べたあと朝まで黒糖焼酎を飲んでいたが、次の日はなんの支障もなく行動することができた。


十月三十日(日)


自由大学、最終日。
徳和瀬の集落に住む、土地の民俗学者松山光秀氏の先達で、マツリの浜として使われていた干瀬を歩く。昔は美しかった砂丘で、以前は夏の折り目にマツリがおこなわれ、ノロの浜降りがあったという。
流れこむ砂の多少で、ノロが豊年になるかどうかを占ったシオダマリも見せてもらった。「昔は」とわざわざ断ったのは、浜が急速な環境破壊におそわれているからだ。


徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ (ニュー・フォークロア双書)


立て岩と海が見下ろせる聖地の真裏に、自動車の排気処分場であろうか、色とりどりの鉄くずが三階建ての建物ほどの高さで積まれている。誰かが「これでは現代アートだ」と皮肉をいったが、砂浜にもさまざまなゴミが漂着しており、松山氏の話では珊瑚の生態も深刻な打撃を受けているという。
このような現状を見ると胸が痛くなるのだが、自分自身のことを省みれば、いまの便利な生活を投げうってまで、この小さな島の珊瑚やマツリの伝統を守る気がないことはわかりきっている。環境の問題が、実は1人ひとりの心のなかの問題なのだと誰もが悟るまで、あとどれくらいの時間がかかるのだろうか。


旅の終わり


奄美自由大学は徳之島で現地解散となった。
私は亀徳港からフェリーで奄美大島名瀬市にもどった。奄美パークの辻明光さんの案内で、民謡の聴ける酒場へむかうためである。スナック「千枝」は屋仁川の繁華街から外れたところにある。国立劇場やNHKの番組に出演したことでも有名な、唄者・森チエさんの娘さんが経営するお店である。
私たち7名は奥の座敷にあがった。今年で八五歳だという大島紬の絣の着物をきた森チエさんが現れた。森チエさんも里英吉さんと同様、網野子という集落の出身である。三線鹿児島銀行の行員のオジさんで、島唄をやっていた縁で就職ができたのだと言って笑った。
挨拶歌の「朝花節」、「しゅんかね節」から、早いテンポで踊り狂う六調、最後の別れ歌「ゆきゅんな伽那」まで約二時間弱、森チエさんの唄声を堪能した。黒糖焼酎を飲むことを忘れるほど、島唄に酔ってしまった。


昼間は学校の先生をしている女性が、それぞれの唄に入る前に冗談をまじえて標準語で詞の意味を説明してくれる。合間合間に森チエさんと三味線の方が奄美の言葉で相談をするのだが、一言として聞き取れる言葉がない。森チエさんだけがふんぞり返ってうたうのではなく、三味線引きの男性も、学校の先生も、たまたま酒場に居合わせた老女も、皆が交互に島唄をうたって楽しむのが奄美流である。
「人が来たら喜んで迎え入れて唄を歌い、会えてうれしいという思いを伝える」と言う森チエさんの精神は、むろん「朝花節」から来ているのだろうが、それは島の人々の心根のあり方をも言いあらわしている。私はわからないとすぐに道をきく方だが、むやみに尋ねると、島の人は手を引いて送ってくれようとするので、こんなに道案内に躊躇した場所もなかった。


旅の目玉として、人骨がごろごろする風葬地であるトゥール墓の見学があったが、ここでは触れないことにする。
旅の終わりに奄美空港で今福氏と会ったところ、彼は腰を痛めて荷物も持てない状態であった。洞穴墓の見学の前に鶏舎を見にいき、屈みこんで内を覗きこんだとき、鶏と目が合い、それきり腰が抜けてしまったそうだ。
「あてられた」と言って先生は笑った。私もやはりわが身がかわいい。書いたら何が起きないともかぎらない、と本気で思う。聖地巡礼の後でもあるし、臆病なくらいがちょうどいいのだ。


初出 : 「ザ・パーム」