サハリン在住のニヴフの小説家、ウラジミール・サンギ氏に映像でロング・インタビューをしてきました。
サンギ氏は、長編小説『ケヴォングの嫁取り』と短篇集『サハリン・ニヴフ物語』が、日本語で翻訳出版されています。
今年(2019年)のノーベル文学賞・ロシア代表に選ばれたそうで、10月の発表が楽しみです。もし受賞すれば、北方の少数民族に大いなる勇気を与えることでしょう。
下記に、ノーベル文学賞のロシア代表に推薦するために、筆者(金子遊)が書き下ろしたエッセイの全文を採録しておきます。
ウラジミール・サンギ氏の近影 (c) Yu Kaneko
2019年8月上旬、ユジノサハリンスクのホテルにて
樺太のホメーロスに耳を澄ませよ
(『ゲヴォングの嫁取り』ウラジーミル・サンギ著、田原佑子訳)
世界中には数多の文学賞があるが、それらが審査の対象にする作品は、文学全体のほんの一部にすぎない。大抵の場合そこでは、詩歌や小説や評論など「文字の文化」において書かれた文章が選考の対象とされる。「声の文化」によって培われてきた作品がほとんど考慮に入らないという意味では、きわめて不十分である。数十万年前からつづく人類の歴史というスパンで考えれば、「声の文化」をもつ人びとが伝説や神話を物語り、家族や氏族の記憶を伝承し、炉辺で語られる言葉に聴衆が感動をおぼえてきた時代のほうがずっと長い。詩が紙に文字として書きつけられ、近代小説が紙を束にした書籍として流通する前から、世界のあちこちで声の抑揚と韻律を自由に駆使する無数のホメーロスたちが、喉をふるわせて歌や声で伝えてきたものが「文学」ではなくて、いったい何だというのか。
ウラジーミル・サンギの長編小説『ゲヴォングの嫁取り』は、サハリン島の先住民であるニヴフに伝統的な狩猟生活が残っていた時期、つまりは19世紀末から20世紀初頭を舞台にしている。それはロシア人の小説家チェーホフが、流刑囚の住民調査のために島に滞在した1890年の時期と重なっている。この小説の後半で、婿の氏族である長老のカスカジークは、舅の氏族から次男に嫁をもらうため、テンの毛皮や干し魚からなる結納品をそろえる。しかし舅の氏族の男たちは、次男ウィキラークが一人前の男かどうか試そうと、熊が冬眠する穴の前につれていく。見事に熊を槍で仕留めたあとで、寝床の焚き火のまえでウィキラークは、当然のことのように伝説(ティルグル)を語るように、舅の氏族に要求する。そこで語られる口承文学は、母親とふたり暮らしで貧しかったニヴフの若者が、タイガのなかで狩猟の神と出会い、ふたつの括り罠を教えてもらうという話だ。それを語り手のニヴフが煙管を吹かしながら語る描写に、大昔から変わらずに伝えられてきたであろう「ニヴフ文学」のルーツがうかがえる。
このように『ケヴォングの嫁取り』に書かれた豊富なフォークロアは、幼い頃から祖母の物語や語り部のティルグルを聴いて育った、ウラジーミル・サンギの鋭敏な耳の力によって集められている。それと同時に、やはりこれは、ロシア語で書かれた近代小説の形式を基礎部分にもつ。三人称による自由間接話法の特長がいかんなく発揮され、サンギは婿の一族と舅の一族の内なる声だけでなく、サハリン島のタイガへ町からの商品を運ぶヤクート人の商人や、ロシア人の流刑囚の生をも彼ら自身の声をとおして描く。それは狩猟民のニヴフ、トナカイ遊牧民のウィルタやエヴェンキといった北方少数民族が混じって暮らし、後から新住民であるロシア人やヤクート人が混淆していったサハリン島の19世紀後半を描くために、きわめて有効な方法だと思われる。この小説は、ニヴフの昔話や伝説をロシア語の書き言葉に残すための「民話集」などでは到底なく、ひとりの優れた作家による創造力の結晶であり、ニヴフの声による口承文学を内臓していることで、近代小説の限界をも易々と乗り越える可能性をはらんでいる。
当然のことだが、『ケヴォングの嫁取り』はフィクションを交えた文学作品である。そうであるのに本書を読んでいると、ロシア化される以前のニヴフが伝統生活に生きる姿のドキュメントを見ているような気がしてくる。それは、日本語圏の読者にとっては、1905年から40年間、南樺太を植民地化するプロセスにおいて、ニヴフや他の北方少数民族を「土人」という地位におとしめる前の、彼らの姿の記録ということになる。ニヴフから言語や生活習慣を奪っただけでなく、無知につけこんで経済的に搾取し、身体を拘束して兵隊として使い、ときには命を奪ったという点では、ロシアも近代日本も彼らにとって破滅をもたらす悪霊のような存在であった。
それに比べて、『ケヴォングの嫁取り』に描かれたかつてのニヴフの暮らしの美点は、極寒の地で日々の食料や生活のやりくりをするブリコラージュの力にあったといえる。たとえば、本書で長老のカスカジークは、野生のトナカイやテンを仕留める狩猟者であり、森のなかに数々の罠を仕かける職人であり、川でサケやマスを網で捕まえる漁労者で、常にふたりの息子の来し方と氏族の行く末を憂いながらも強く育てる父であり、造物主(タイフナド)と精霊クールングをたたえる吟遊詩人でもある。職業分化が進む前の時代では、誰もが自分のなかに詩人、狩猟者、職人、料理人、宗教者をもっていた。そのように全人性をもって生きることの豊かさを、近現代人は失ってきたわけだが、この小説にはニヴフがそれを失う前のありようが活き活きと書かれている。
『ケヴォングの嫁取り』を読みながら、わたしは何度もひどく懐かしい郷愁をおぼえた。近年のミトコンドリアDNAの分析によれば、日本列島人には7つから9つくらいの異なる種族のDNAが入っているという。そこにはシベリアの先住民や、バイカル湖周辺からマンモスを追ってきた狩猟民のDNAも含まれているそうだ。13世紀くらいまで北海道の網走周辺で栄えたオホーツク人は、ニヴフに近い人たちだったという研究もある。そのような意味では、ほんの少しだけわたしもニヴフであり、ニヴフもわたしである。誰もが自分のなかに狩猟民の時代からの記憶を保持しており、この小説を読むと、それが体の奥底で静かな雄叫びをあげる。ウラジーミル・サンギという小説家は、文字で残されることが少なかったニヴフの伝統生活を、個人の想像力をつかって現代に蘇らせるホメーロスであろう。そして、かつてサハリン島を縦横無尽に移動していたニヴフの詩人の声を集めて記憶し、わたしたちの時代に届けてくれる偉大な編纂者でもあるのだ。
金子遊(かねこ・ゆう)