シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

映画『ジョーカー』を民俗学で読解する text 金子遊

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バットマン映画

 筆者はマーベルもDCコミックも、熱心な読者ではありません。アメコミで唯一好きで読んだのは、ロバート・クラムくらい。ですが、映画『ジョーカー』は気になって、マスコミ試写で2回も観ました。マーベル(スパイダーマンXメン、アイアンマン)よりは、DCコミック(スーパーマンバットマン、アクアマン)の映画の方が好きです。クリストファー・ノーランが撮った『バットマン・ビギンズ』(05)、『ダークナイト』(08)、『ダークナイトライジング』(12)は格段に好きです。ゴッサム・シティが現実のNYとほぼ変わらないという設定がよくわかりました。
 90年代前半、高校生のときにアメリカに住んでいていたとき、まわりの男の子たちはアメコミに夢中だった。はじめてNYに行ったのは93年でしょうか。映画『ジョーカー』(19)は、ゴッサム・シティ70年代から80年代が舞台だというが、劇中でアーサーが母のベニーと一緒に見る「マレー・フランクリン・ショー」の家具調テレビも、貧しい家庭にいくとまだあった時代でした。映画の後半、アーサーがショーに出る前に家で予行練習するシーンで、古いビデオデッキが出てくるが、あれも90年代のアメリカで見覚えがある。本作の元ネタになっている「ザ・トゥナイト・ショー」のジョニー・カーソンの時代も、ぎりぎりテレビで見ていた世代です。

 ティム・バートンが始めた最初のシリーズとノーランの3部作があるが、結局ジョーカーが出てくる回だけがおもしろいのではないか。『バットマン・ビギンズ』では、両親を強盗に殺されたトラウマと、子供時代に怖かった洞窟内のコウモリを克服し、世界中を旅したブルース・ウェインチベットで修行してそれを乗り越える。人間ドラマに厚みがあって、今回の『ジョーカー』もそれを踏襲している『ジョーカー・ビギンズ』になっているといえます。キャラクターの誕生秘話はおもしろいに決まっています。『機動戦士ガンダムorigin』シリーズで、シャアの誕生の物語を描いていたが、特に悪役の誕生秘話はドラマに満ちていておもしろいものです。

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ジョーカーの民俗学

 最初の『バットマン』(89)では、ジャック・ニコルソンがジョーカーを演じ、マフィアの子分で硝酸のタンクのなかに落ちて顔が焼けただれ、整形に失敗してあの顔になってしまう。しかし今回の『ジョーカー』でははっきりと、アーサーがジョーカーになる前はピエロ=道化師を仕事にしていたことを描いています。
 そもそもトランプのジョーカーが、なぜピエロの格好をしているのでしょうか。jokerは中世ヨーロッパでは、王族や貴族にジョークを言って楽しませる人=宮廷道化師だった。一方でfool=愚か者でもあるから、殺されるかもしれないのに王様や貴族を批判することができました。それでトランプでは、キングよりも強いカードになっている。既成の秩序をかく乱し、上下関係をあべこべにして笑い飛ばす力をもっています。ミハイル・バフチンの言葉でいえば、カーニバレスクな笑いには高貴な人を「格下げ」することによって、笑い飛ばす無礼講の力があった。山口昌男の『道化の民俗学』によれば、イタリアのコメディア・デラルテ(仮面劇、アクロバット)を経て、道化師はフランス的なピエロへと移行していきました。

 文化人類学でいうと、トリックスターの類型は世界各地の神話に見られます。世界に秩序と文化をもたらす「英雄」に対して、トリックスターは善と悪、天と地、秩序と混沌のあいだを自由に往還する両義的な存在です。硬直した状況に流動性を与えて活性化させる者。策略や詐術を駆使する、ずる賢いいたずら者ですが、反社会的な破壊する人でもあります。混乱や破壊を引き起こすが、破壊のあとに新しい秩序をもたらす者でもあります。誰もがジョーカーに興味があるのは、こうした古来からの神話的類型に基づくキャラクターで、ジョーカーはトリックスターだからです。破壊と笑いを同時にもたらす二面的な存在だからです。誰が演じても魅力的なのは、わたしたちの神話的類型に触れているからでしょう。


絶望の笑い

 『バットマン』のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーは、マフィアの子分でした。ティム・バートン版では派手なコスチューム、プリンスの音楽、カーニバル的な演出によって道化師の面が強調されていた。ノーラン版の『ダークナイト』のジョーカーはメイクも薄く、ヒース・レジャーの名演、現代的なリアリズム演出によって、破壊者や悪党という面が強いです。今回の『ジョーカー』のホアキン・フェニックスは、それら二者とは異なり、DVを経験し、貧困家庭に生まれたばかりに、人を喜ばせたくてピエロのバイトをやり、スタンダップ・コメディアンを目指している悲しい境遇の男です。

 ルックスも異なり、24キロ減量したホアキンの体はやせ細り、笑いだす発作ははっきりと脳と神経の障害であり疾患だ、という設定になっています。そんな彼がどうして破壊者ジョーカーになったのかを、ひとつ一つ丁寧に段階を追って説得的に見せていく。事実を積み上げていき、じわじわとアーサーを絶望に追いこんでいくお手本のようなプロットです。「映画の物語って、こうやって書くんだな」と感嘆するスクリーンプレイでしょう。自殺を決意するまでになった縁で、アーサーは人殺しに変貌し、絶望のどん底まで落とされたところで笑いが生じる。自分に自信のない弱者から「自分は自分でしかない」と気づき、強者へと脱皮するのです。

 いつも物足りなく思うのは、『ダークナイト』の検事ハービー・デントが憎しみのためにトゥー・フェイスになったように、バットマン映画はわかりやすさを担保するのめに二面性で描いてしまうところです。『ジョーカー』の限界もそこにあるのでしょう。アーサーが狂った世界を憎み、自死を決意したところで、ある人物を殺してしまう。アーサーが殺人を楽しみ、破壊を享楽できる自己の二面性=ジョーカーに目覚めて、自信を取りもどすのですが、その単純さ、わかりやすさがもったいないです。

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『ジョーカー』の映像

 登場人物をどのようなアングル、サイズ、ライティングで撮るか、その背景に何を映すかによって、映画の映像はその人物の内面や置かれた状況を視覚的にわかるように描写します。映画の冒頭、鏡の前で無理にアーサーが笑おうとしているシーン、それからソーシャルワーカーと対面して話すシーンで、被写界深度をとても浅くしてアーサーだけにピントを合わせて他をぼかしています。この人物が社会から遠ざけられ、周囲の人びととなじめない孤独な人間であることを、映像的に示しています。それを実現するために、撮影監督はALEXA65という、通常の35ミリカメラの3倍もの大きさをもつ巨大センサーを搭載したシネマカメラ(ラージフォーマットカメラ)を使用したとインタビューで言っています。

 同じく映画の冒頭で、古いテレビで母のベニーと一緒に「マレー・フランクリン・ショー」を見るアーサー。その途中から、現実と幻想の区別をつけないフラッシュフォーワードで、アーサーが番組の会場に入り、母子家庭でがんばっていることをマレーに誉められる場面があります。この後のできごとが、現実と幻想が入り乱れていることを予告するシーンになっている。アーサーが3人の証券マンを撃ち殺したあとに、黒人のシングルマザーのソフィーとキスする場面も、スタンダップ・コメディに出演し、ドーナツ屋でデートする場面も幻想です。母親が脳卒中で入院し、病室の横に座っていたソフィーも幻想でした。それと同時に、アーサーがジョーカーへと脱皮したあとで、ある人物を撃ち殺すシーンの伏線にもなっています。映画の冒頭で起きたことが、主人公の成長によって、ラストシーンではまったく正反対のできごとが起きる対比になっています。


ウェイン家の謎

 映画『ジョーカー』は、ブルース・ウェインの父親トーマス・ウェインとジョーカーの因縁を描いてもいます。アーサーの母親であるベニーは、かつてトーマス・ウェインの会社で働き、アーサーは彼との隠し子ではないかという疑惑がわきます。実際には、ベニーは妄想性精神病だったことが判明するのですが、ベニーが若くて美しい頃に撮った写真の裏側には「TW」のイニシャルが書いてあります。もしかしたら、ベニーの言っていたことがすべてが妄想ではない、病気はウェインに遠ざけられて失恋のせいで症状が悪化したとか、ベニーとウェインが愛人関係にあって関係を隠されていたとか、裏に何かがあったことを匂わせます。

 トーマス・ウェインが市長選に出て、テレビで「貧困層が証券マン殺人のピエロを支持している」ことをこき下ろす。アーサーの敵となるウェインとマレーは、市長選に出る億万長者とテレビ番組の司会者であり、ふたりを合わせるとドナルド・トランプのような人物像になります。トランプは「アプレンティス(見習い)」というリアリティ番組のレギュラーで有名人になった人物です。ノーラン版では、ウェイン・タワーという建物がゴッサム・シティの中心にあって、そこにつながるモノレールが建設されたというエピソードが紹介されています。まるでトランプ・タワーのようです。

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『ジョーカー』の時代背景

 娯楽映画は、観客の理解を助けるために、その時代の要素を取り込んでパロディ化します。つまり『バットマン』映画も、それらが作られた時代を幾分か反映しているのです。たとえば『ジョーカー』は、70年代から80年代のNYを反映し、アーサーとベニーの暮らす賃貸アパートは、ブロンクスの労働者階級が集まる地区という設定です。アーサーによる証券マン殺人事件を支持し、ゴッサム・シティ貧困層が起こすピエロの仮面のデモは、リーマンショック後の2011年から発生して、貧困層中流層が富裕層への不満を爆発させた「ウォール街を占拠せよ」を思いださせます。ラストの暴動シーンは92年のロス暴動、67年のデトロイト暴動など、アメリカの現代史でくり返されてきた暴動を思い起こさせます。

 ジョーカーもまた時代を映す鏡であります。89年版のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーは卑劣な破壊者でありながらも、ヒロインのキム・ベイシンガーに横恋慕したり、死に方もコミカルな存在だった。時代がまだ豊かで、明るかったからでしょう。しかし、リーマンショックのあった2008年に発表された『ダークナイト』になると、警察&検察とマフィアが対立するなかで、バットマンを倒すための必要悪とされてのし上がってくる、貧困で底辺から這い上がってきたジョーカー像に変貌しています。そして『ジョーカー』でジョーカーになるアーサーは、貧困で精神疾患まで抱えている人間です。ベニーの養子で、子供の頃にベニーの夫からDVされて、そのせいで脳と神経がやられて笑い病に苦しんでいる、同情すべき境遇の男です。孤独な男が絶望の淵でジョーカーに転身する様は、もろに現代アメリカにおいて多発している銃乱射事件の犯人たちを思い起こさせるのです。そこに、この映画が持つ不穏な空気があるのでしょう。