永遠と一日 ②

johnfante2008-12-29

テオ・アンゲロプロス シナリオ全集

テオ・アンゲロプロス シナリオ全集

 


旅芸人の記録』『永遠と一日』等の採録シナリオを所収した一冊。

政治の季節


当時、祖国ギリシャではパパゴス元帥の組閣以来、右翼政権が比較的政治の安定を保っていて、学生のなかには反ファシスト運動に身を投じる者も少なくなかった。
アンゲロプロスはそんなギリシャに嫌悪を覚え、パリに逃げ出してきたスノッブな留学生であった。
しかし六〇年代のパリは「政治の季節」の真っ只中でもあって、アンゲロプロスアテネのみならずパリでも「クセニティス(よそ者)」であった。
ところへ、構造人類学レヴィ=ストロースとの邂逅があった。


軍部対学生、政治家対コミュニストという男性原理同士の小競り合いをよそに、アンゲロプロスはしこしこと大学の教室に通った。
外界と隔てられた教室やうす暗い映画館だけが、行き場のない者を受け入れてくれる空間だったからだ。
レヴィ=ストロースによれば「人間の多様性についての認識は、むしろ自己のアイデンティティの罠にひっかかっている人の方にときには容易に見えるものである」のだ。
軍部は問答無用だが、左翼の歴史意識と主体性もアンゲロプロスには信じられなかった。
あくまでもクセニティスとして揺れ続けるまなざしで、西欧でも東洋でもないギリシャという小国を眺めていた。


神話的思考


レヴィ=ストロースが所有するトリンギット族(アラスカ)の打魚棒は、魚を殺す道具であるとともに芸術作品でもある。まさに『旅芸人の記録』((77)現代ギリシャにおける打魚棒として機能した。
ファシスト政権を打ち倒す棍棒として実用の機能を持ちながら、政治喧伝映画におちいらず、芸術作品としての美しさを保持している。
『旅芸人』では歴史と古代神話が複雑に錯綜する。それは、パリでフランス語の映画を撮ることをあきらめた代償に、アンゲロプロスギリシャに再発見したオリジナリティであった。



旅芸人の記録』からの映像


彼は「雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現する」レヴィ=ストロースの神話的思考をギリシャ映画に持ちこんだ。
神話的思考はシュルレアリストが客観的偶然と呼んだ不意の出逢いを、特有のブリコラージュ(器用仕事)の方法によって作り出す。
ギリシャの古代神話とワンカット=ワンシークエンスの手法が醸造する、『旅芸人』の摩訶不思議な映画空間は、ブリコラージュの映画実践によって創りだされたのだ。


立ちずさむこと


こうのとりは飛び立たずに、立ちずさむ。旅人は移動における飛躍によって、より開かれた認識へとたどり着くのではなく、旅の半ばで途方に暮れて立ちずさむときの内省によって旅からの贈り物を手にするのだ。
こうのとり、たちずさんで』(92)は、タイトルにも物語にもアンゲロプロス自身が素直に投影された作品となった。
テレビレポーターのアレクサンドロスが国境の町でトルコ人クルド人ルーマニア人ら難民を取材している。
捨てられた貨物列車に居住する難民を横移動の長まわしで撮っていると、そこに偶然失踪した政治家(マストロヤンニ)の姿が映っている。
ちぎられた雲の形象をした霧が、時々わざとらしく貨物車にかかってくるこのシーンは、アンゲロプロスの映画のなかでも最も美しいシーンのひとつにちがいない。



アンゲロプロス映画の音楽家エレニ・カラインドルーによる曲「song of lake」


ここでアンゲロプロスは、神話的思考を援用した『永遠と一日』にも直結する独特なブリコラージュの方法を発見した。
霧がところどころにかかるワンカット=シークエンス撮影によるこのシーンは、客席の人々の意識にもいつしか濃い霧を立ちこめさせる。
まぶたが重くなり、半覚半醒の境地に観客はいざなわれる。
そういえば六九年の「赤い映画=対談」において、ゴダールは「私にとって重要なことは、観客とスクリーンのあいだに起こることだ」とジャン・コントネーに言っている。
とすれば、アンゲロプロスの霧が観客とスクリーンのあいだにもたらす眠りにも似た意識変容は、意図的に行われたブリコラージュによる呪術的操作なのかもしれない。


(つづく)