シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

永遠と一日 ①

johnfante2008-12-25


永遠と一日』を収録したDVD−BOX

流浪の旅


昼下がりのガランとした劇場。他人に近づきすぎぬように気をつけ、客席のひとつを確保する。くぐもった映写機の振動が尻に心地よく伝わる。
幕が上がるとそこにもうひとつの幕があり、旅芸人一座のアコーディオン弾きが詩劇「ゴルフォ、羊飼いの少女」について語りだすような錯覚におそわれる。


だが、遠くギリシャの地でも、無邪気ですらあった激動の時代は追憶のなかに色あせ、代わりにひとは家族の追憶を胸に自身にむかい合わざるをえない。
かつてファシスト政権下をともに旅した仲間は四散し、穏和だが孤独で終わりのない日々が続く。
そんなとき、アンゲロプロス的精神はもう一度旅にでる。当てどもない放浪の旅にではなく、また同じ場所に帰ってくると知りながら歩を進めざるをえない、そんな流浪の旅に。



永遠と一日』予告編


永遠と一日


エーゲ海の港町テサロニキは曇っている。
ギリシャ二〇〇〇年の沈滞を物語るかのように、空から深い霧が街にそそぎこむ。
あるアパートの一室で、ショーン・コネリーばりの髭づらの紳士が目を覚ます。おや、と客席にどよめきがする。
そう、そのひとの名はブルール・ガンツ。人間になって空中ブランコを楽しんでいるはずのベルリン天使が、妙なところで寂しそうにうつむいている。
永遠と一日』は、ブルーノ・ガンツ扮する重病を患った初老の詩人アレクサンドルが、入院を明日にひかえ、丸一日廃墟となった思い出の地をさすらい歩くという救いがたい内容の映画だ。



ギリシャ語に吹き替えられているので、ブルーノ・ガンツはあらかじめ発話行為を奪われた「老いた身体」として現れる。
『蜂の旅人』のマストロヤンニ、『こうのとり、たちずさんで』のジャンヌ・モロー、そしてブルーノ・ガンツ、かつての名優たちの無惨に老けこんだ顔が観客の映画的記憶にはたらきかけ、「虚構としての流浪」と「映画史の流浪」にスクリーンを二重化する。
この辺は、ニコラス・レイサミュエル・フラーを登場させるヴェンダースのやり口とさして変わるところがない。
それでも、アンゲロプロスの映画は「旅の記録」にとどまり続け、けっして「ロード・ムーヴィー」にはならない。それはなぜか。


映画を巡る旅


アンゲロプロス自身の映画を巡る旅は、一九五三年からはじまる。
一八歳でアテネ大学法学部に入学し、アテネの新宿昭和館である「アラスカ」でフィルム・ノワールに夢中になる。
五九年にゴダールの『勝手にしやがれ』を観て、二六歳で切符代だけ持ってパリに旅立つ。
六二年には、ソルボンヌ大学に入学手続をし、哲学の聴講を申し出る。
そこでフランス文学の講義、ジャン・ミトリの映画学、ジョルジュ・サドゥールの映画史の授業とともに、クロード・レヴィ=ストロースの演習にも顔をだした。


六二年はレヴィ=ストロースにとって実りの多い年で、その重要な著書『今日のトーテミズム』と『野生の思考』が刊行された年である。
同時に、その年はフランスの戦後思想史においてターニング・ポイントになった年でもあった。
弁証法的理性批判』でサルトルが「未開社会」への傾倒は歴史的な後退であると構造主義を批判したのに対し、レヴィ=ストロースは『野生の思考』の最終章で、サルトルエスノセントリズム(自民族=ヨーロッパ中心主義)の理性的な歴史認識を「知的食人」行為として激しく非難した。