シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

永遠と一日 ③

johnfante2009-01-06

アンゲロプロス―沈黙のパルチザン

アンゲロプロス―沈黙のパルチザン


オフ・スクリーンの手法


アンゲロプロスの映画を見つめる観客は、放浪する人物をフレームアウトした後も、霧の中を彷徨するキャメラ視線を知っている。
永遠と一日』で川辺を歩きながら、ブルーノ・ガンツアルバニア難民の少年に、一九世紀の詩人ソロモスの話をはじめる。
キャメラはふたりを追い越して背景であった川とともに流れはじめ、オフ・スクリーンでガンツの語る物語を耳にやさしく響かせる。
放浪しているのは人物の方ではなく、キャメラの方なのだ。



「キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒」(1995)から全編


永遠と一日』より前のアンゲロプロスのオフ・スクリーンの手法は、歴史的な場に遭遇するキャメラが、それを画面外に移すことによって観客に判断を委ねるという、アラン・レネが『夜と霧』で達成した手法の圏内から抜け出ることはなかった。
ところが、さまよい歩くガンツを目の前にした長まわしでは、アンゲロプロスキャメラ視線は途方に暮れてとりあえず画面の外へと流れ出る。
その不器用なキャメラワークに観客はフィクションの世界から目を覚まされ、ものごとを正視できないキャメラの存在、キャメラの気弱な運動の軌跡に目が入ってしまう。
二十年のあいだ旅人を描き続けてきたキャメラ視線が、旅人を置いてひとりで彷徨をはじめたのだ。


既成文法の破壊


ここで遠いギリシャの映画人の話に、もう一度耳を澄ませてみたい。
アンゲロプロスは二七歳のとき、ソルボンヌ大学からパリの映画高等学院(IDHEC)に再入学した。
その年、短編映画の課題でロジェ・ヴァディムの『危険な関係』を引用しながら、そのシーンを三六〇度の全景ショット・パンで解体し、担当講師を激怒させて放校処分になった。
この頃からすでに映画の既成文法の破壊を試みているのだ。


三五歳で長編処女作の『再現』の撮影に入るが、撮影地ヴィッツアでアンゲロプロスキャメラを向けた途端、その映画の最初のショットだというのに、霧が立ちこめ、小雨が降りはじめた。
アンゲロプロスと霧の神話的な関係はここからはじまった。自然に歯を向ける分析的認識の装置でしかなかった映画キャメラが、アンゲロプロスの手の内でトリンギット族の棒のように、自然との合一が可能な呪術的装置に変貌を遂げたのだ。
アンゲロプロス寺山修司のようにスクリーンを縦に切り刻むこともなく、ましてやゴダールの即興演出に傾倒するまでもなく、ただ霧を待ちながらその場に愚鈍に立ちとどまり続けることによって、スクリーンという名の台座から映画を簡単に引きずり下ろしてしまった。



『エレニの旅』(予告編)は新三部作の第一部にすぎない


そのときスクリーンと観客のあいだにひとるの神秘が起こった。
眠りから静かな覚醒へと導かれた観客は、頭のなかの内なるおしゃべりを止め、ただ純粋に「見る」だけの光学機械となった。
延々と、永遠と一日ほども続きそうな退屈のなかで、観客はアンゲロプロスの霧に全身を明け渡し、映画を観ながらにして夢見るのだ。
アンゲロプロス的な映画夢を見ること、それは闇のなかで黒い馬を見るような、人間意識のひとつの可能性をも暗示しているのだ。


初出:「映画芸術