シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

シャドウ・ダイバー ②

johnfante2007-02-10

Shadow Divers

Shadow Divers

2度目のツアー


1991年9月21日。
スタッフと乗客のリストは、1人増えて1人減った以外には変わりなかった。船には13人のダイバーが乗っていて、1人につき2ダイブできるから、全部で26ダイブだ。誰が潜水艦の正体をしめす断片を手に入れる、という名誉を手にすることができるのか。
午前7時ごろ、目的の場所に着き、最初にチャタトンがアンカー・ロープを固定し、そのままダイビングをした。
透視度は標準的な6メートルほどだった。アンカーは海底に落ちた鉄のかたまりに引っかかっていた。
それは司令塔で、完全な形を残していた。それが残した穴から内部に入ることもできたが、結局チャタトンは船体を調べてまわった。
下士官室はさながら共同墓場で、骸骨がごろごろと転がり、制服や遺品が45年の歳月ののちも生々しかった。
そのうち、タイマーが戻れと告げた。


スキビンスキーとフェルドマンは、司令塔近くの穴から内部へ入り、製造番号が刻まれている破片を探した。
が、あまりの多さに魅了された。14分経ったらロープに戻る約束だったので、スビンスキーはフェルドマンの肩をたたいて、浮上の合図をした。
上へあがりながら、フェルドマンを振り返ると、彼のレギュレーターから泡が出ていないことに気づいた。スビンスキーは下りていったが、フェルドマンはまばたきをしていなかった。
頭はがんがんして、息は荒くなり、エアの残量の針はさらにさがった。友人を抱え、腕一本でアンカー・ロープに取りつく。潮の流れのせいで、フェルドマンの体は反り返った。ありったけの力で自分の体を引き上げた。



そのとき、ブレナンとロバーツの2人が潜航してくるのが見えた。スビンスキーが休むためにロープから手をちょっと離したすきに、フェルドマンともども流されかけた。彼は友を放した。ぐったりしたダイバーはたちまち沈みはじめた。
ロバーツが身を乗り出したものの、フェルドマンはどんどん沈んでいった。彼を追いかければ、自分が迷子になることは承知していたが、条件反射で体が動いた。2人一緒になって海底の砂地に着地した。しかし、フェルドマンの顔に生命のしるしは見られなかった。


雪だるま式に悪化するパニック。
スビンスキーが喉を切るしぐさ(空気切れ)をしながら、水深48メートルあたりでブレナンの方へ向かってきた。ブレナンはスビンスキーに予備のレギュレーターを渡し、一緒に上昇していった。
水深10メートルあたりでスビンスキーを他のダイバーに任せると「ロバーツはすでに死んでいる男のために自分の命を危険にさらして、1人で降下した。彼を探しにいかねば」と考え、急いで潜航した。
ロバーツはフェルドマンに目印のひもを巻きつけ、浮上を開始した。水深30メートルまで上がったとき、彼は奇跡を見た。浮上しながら、アンカー・ロープまで流し戻されたのだ。
ふつうでは考えられないことだった。チャタトンが2時間後に遺体を捜しに行った。

該当する潜水艦なし


フェルドマンの事故後、チャタトンがUボートで見つけた鉤十字章つきの皿によって、謎の沈没船の噂はダイビング界に完全に広まった。
彼は海の底に沈んだミステリーを発見することになったのだ。司令塔は外れ落ち、船体には穴が空いていた。だが、どの資料を見ても、その海域ではUボートの沈没はおろか、船舶事故すら起こっていないという。
また、発見したいくつかの遺物を手掛かりに、内外の海事専門家を訪ねてまわるものの、艦名すら杳として知れない。
歴史から忘れられた“U‐Who”に興味津々のダイバーたちは謎を解く鍵を求めて深海を再び目指すのだった。


シーズンにはいって最初のUボートのダイビング・ツアーは、1992年5月24日に決まった。リッチー・コーラーは止めたが、チャタトンとユーガは、より長く潜っていられ、視野が広がり、窒素酔いがなくなる、酸素とヘリウムと窒素を混合した「トライミックス」と呼ばれるガスを使う予定だった。軍や潜水作業で使用されている技術を応用したものだ。
<シーカー>が沈没船につき、朝ダイバーたちが目を覚ますと、すばらしい日和で海中の透視度は、30メートルはありそうだったチャタトンとコーラーは因縁のディープレック・ダイバーのライバルだったが、今回は一緒に潜ることに決めていた。



チャタトンの祖父は30年代には10年間海軍の潜水艦に乗っていた艦長で、第2次大戦中は船団を率いた英雄だった。彼は幼少の頃からその話を母親から聞いていた。戦後は松葉杖をつきながら全国をまわり、指揮下で命を落とした兵士全員の遺族を尋ねた。
チャタトン自身も軍に入り、ベトナム戦争で衛生兵となった。そこで勇敢な行動を見せたが、71年に退役し、職業ダイバーになった。そして、射撃の名手でプロのキャシーと結婚した。チャタトンはUボートの向こうに、亡くなった祖父の人生をみていたのである。


ブルックリン生まれのコーラーはドイツ人移民の父を持っていた。歴史書ナショナル・ジオグラフィックをむさぶり読む少年だった。一緒に釣りにいくたびに、父親は海に沈んだUボートがかつてこの海域でも活躍したことを息子に話した。
大きくなって海軍に入ってから、父のガラス会社で働いた。その頃、ニューヨーク沖に沈む〈アンドレア・ドリア〉の沈没船に見せられ、レック・ダイビングにはまっていった。何よりも乗船していた人たちのことを調べるのが得意だった。コーラーにとって、このUボートを調査することは、苦労した父親の名誉を回復することを意味していた。


1989年の<アンドレア・ドリア>の調査のとき、チャタトンは<シーカー>に乗り、コーラーは<ワーフー>に乗っていた。チャタトンたちが見つけなかったものを、コーラーは独自の歴史的知識で遺物を見つけていった。
2つの船が沈没船を囲んで向かい合って、ダイビングを競ったこともあったが、そのときはチャタトンたちに軍配があがった。チャタトンは自分を出し抜こうするような男と組むことは気が進まなかったが、コーラーの第二次大戦についての専門的知識が必要だった。

Uボートの謎


ビデオ撮影機材を持って、日の出直後に潜った。
30メートル地点で、Uボート全体が見渡せた。2人は別れ、チャタトンは艦長室を抜けて、下士官居住区に入った。折り重なった人骨を目にした。計画を守り、ビデオ撮影をしてまわった。コーラーは遺物探しをし、2人は船に戻った。
次のツアーは1992年6月9日だった。
39歳のクリス・ラウズとクリシー・ラウズの父子が加わった。2人は確固たる安全教育で知られる洞窟ダイバーだった。今回もチャタトンとコーラーが最初に潜ってアンカーを固定した。
クロウエルとユーガは巻尺で潜水艦の全長は計った。船体はおよそ76メートルあり、<U-851>でないことが証明された。それ以外に、これといった収穫はなかった。
ラウズ親子は調理室で、ドイツ語が印刷されたキャンパス地の布を発見した。そこに張り付いているのを掘り出せば、正体が解明されそうだった。次の日のツアーで解明できると信じた。


シーズン最後のツアーが10月10日組まれた。
特別2日間の予定だった。ラウズ親子はトライミックスを買う金銭的余裕がなく、いつもの空気を吸うことに不満だった。最初に潜ったチャタトンとコーラーは、機械工程を図で表した金属片を見つけた。「デンマークブレーメン」というドイツ語は、Uボートの造船所であるらしかった。


次の日、海は荒れ模様だった。ラウズ親子は功をあせってダイビングを強行した。
息子クリシーは例の調理室へ向かった。目的のキャンバスは鋼鉄のキャビネットの下に埋もれていた。布を強く引くとそれが倒れかかり、クリシーの顔は自分が掘った穴に埋まってしまった。窒素酔いが彼を襲った。父のクリスが息子を助けたときには、予定の時間を10分オーバーしていた。
沈没船の外で小型タンクとアンカー・ロープを探しているうちに、さらに10分が経過した。減圧時間が2時間半は必要な計算だ。そんな空気は2人にはなかった。父子は海面目指して一気に上昇した。大波のなかを何とかシーカーに到着した。
親子は重症の減圧症にかかっていた。息子クリシーは激痛に叫んだ。クリスに1時間半も心肺蘇生術を施したがだめだった。沿岸警備隊のヘリコプターが到着し、2人は回収されたが、クリシーは苦痛にのたうっていた。息子は病院で死んだ。


鉄の棺―Uボート死闘の記録

鉄の棺―Uボート死闘の記録