シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『中華学校の子どもたち』

johnfante2008-11-24

映画芸術ダイアリー」の「試写室だより」に、『中華学校の子どもたち』評がアップされました。


http://eigageijutsu.com/article/109981800.html


横浜ニューテアトルにて公開中。
東京は12月6日(土)より銀座シネパトス他で公開予定です。


インターナショナル・スクール(?)


中華学校の子どもたち』の映画のなかで、中華学校の校長がインタビューに答えている。
それによると、近年は中華系のルーツをもたない日本人の生徒が増えて1割に達しているという。
「これからは中国の時代、子どもに生きた外国語を身につけさせたい」と考えた父兄が、インターナショナル・スクールとして送りこむものらしい。
中華学校への日本人の入学希望者も増加しているというが、移民文化という背景をもたずして、はたしてどこまで言語感覚をとぎすませるものか疑問であるが。



ドキュメンタリー映画中華学校の子どもたち』予告編


チャイナタウンと奴隷貿易


中華学校の子どもたち』のなかで、子どもたちが授業の一環として、自分たちの親が働く中華街へフィールドワークに出かける場面がある。
おかゆ屋さんや中華料理店の子息たちが、厨房や店内で料理のつくり方をインタビューしてまわる。
横浜中華街のあの複雑な街路を、自分の庭のように歩きまわる子どもたちの姿が生き生きしている。


世界中にあるチャイナタウンは、どうして料理店ばかりがひしめき合うような構造なのか。
この疑問には、歴史が答えてくれる。
ヨーロッパによるアジアの植民地化が進むと、西欧人と現地人の間に立って流通・経済をあやつる中国人があらわれ、各地で華僑社会が成立した。
とはいえ「華僑」で最初から商人だったのは恵まれた階層だけで、その多くは苦力(クーリー)とよばれる肉体労働者だった。



19世紀に黒人奴隷制度が各国で廃止されると、植民地やアメリカで労働力が不足し、黒人の後釜として中国人の苦力が注目され、人身売買である苦力貿易が盛んになる。
中国ではアヘン戦争で国内が乱れ、広東省福建省で貧民があふれて海外へ流出していった。
苦力は猪仔(子ブタ)と呼ばれてアメリカ、キューバ、マレーシア、モーリシャス島、西インド諸島などへ移民として送られた。


彼らは低賃金で過酷な労働を強いられ、最下層の生活を強いられた。
日本でもペリー来航前に、アメリカ商船のロバートバウン号で苦力が苦役にたえきれずに反乱を起こし、石垣島で漂着している。
多くの苦力が勉強や勤労を重ねた後に、商人として「華僑」になっていき、華僑の世界的なネットワークが形成される。
彼らが金銭に対する執着が強いように見えるのは、海外移住での困難を経た歴史があったからである。


横浜中華街の成立


一方、開港後の横浜では、欧米の商館に住んでいた中国人の数が増えて、山下町に集団で住むようになった。
これが唐人町南京町、中華街)のはじまりである。
当時の中国人は土木関係、印刷、保険金融、写真技師など、欧米の技術を利用した職業についていた。
それらの分野を日本人がまかなうようになると、次第に「三把刀」で身を立てるようになったという。
外国に華僑としてでた中国人には「三把刀」、つまり刃物を使う三つの職業である料理人、縫製師、理髪師をする者が多かった。


その背景には、明治政府が大勢の中国人労働者の来日で日本人が失業しないかと考えて、居留地の外で仕事をする外国人に理髪、洋裁、料理業などの職業制限を設け、未熟練労働を規制した政策があるという。
また、関東大震災のときには、逆上した日本人による朝鮮人・中国人の虐殺もあった。
そのような歴史を経て、面積約400メートル四方の横浜中華街には、いまも数百軒の店舗が身をよせあっているのだ。




中華学校の子どもたち』
監督・撮影:片岡希
2008年/日本/配給:ブロードメディア・スタジオ/86分
11月22日(土)横浜ニューテアトルにて公開
12月6日(土)より銀座シネパトス他にて全国順次公開
公式サイト http://www.chukagakko-movie.jp/