シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

中国奥地のローマ人村 ②

johnfante2009-12-23

ローマ人の末裔が住むという中国奥地の村についてです。

村の伝承


しかし、村の言い伝えでは、145人のローマ人が捕虜にされて、長い間その地域を歩きまわったと言われている。
ダブズ教授の推論は、彼らローマの捕虜が東方に傭兵部隊として進んだという。
そして、17年後に、彼らが漢族によって捕えられ、ローマの戦術が伝わり、「魚鱗の陣」をする部隊が中国に生まれたというのだ。
教授は言う。「魚鱗の陣」は、ローマ帝国で言及されたところのテストゥード隊形(亀甲隊形)である、と。
つまり、それは密集した部隊が、すべての側面と上方を盾で守るというものであった。



驪靬の近くに住むGu Jianmingは、自分がヨーロッパの帝国軍隊の末裔かもしれないと聞き、とても驚いたという。だが、それ以上に驚いたことは、彼の娘のGu Meina(6歳)が、完全なブロンドの髪で生まれたことである。
「彼女が生まれたあと、その髪を剃りましたが、1ヶ月後にはまたブロンドの髪が生えてきました。学校ではイエロー・ヘアと呼ばれています。ローマ人の話を聞くまでは、なんでこんなことが起こるのかと思っていました。私たちは貧しく、先祖代々の菩提寺すらないので、これまで自分たちの先祖について知らずに来たのです」


ホーマー・H・ダブス教授説の根拠


○ローマのクラッスス隊とパルティアが交戦し(カルラエの戦い)クラッスス隊は大部分が捕虜になり、奴隷として生涯を閉じたが、その中には行方不明になった者がいる。
ダブス教授説では、一部のローマ兵はパルティアを抜け出し、東へ東へと逃走した。


○《漢書》列傳 卷七十 傅常鄭甘陳段傳 第四十 陳湯 『歩兵百餘人夾門魚鱗陳、講習用兵(百人ほどの歩兵が門を挟んで魚鱗の陣を布いて演習していた)』という記述がある。
→ダブス説では、「魚鱗の陣」とはローマの「亀甲隊形」のこと。


○《漢書》列傳 卷七十 傅常鄭甘陳段傳 第四十 陳湯 『土城外有重木城(版築城壁の外に頑丈な木の城壁を巡らしていた)』という記述 
→ダブス説では、「重木城」とは「木柵」のことで、陣地を二重の城郭で囲むのもローマの戦術。



○驪靬という地名はアレキサンドリアの音写でローマを意味する。
→ダブス説では、漢代では降伏した敵国人の居留地にその国の名前を付ける例が多く見られるので、驪靬はローマ人の街である。


○まとめ。
パルティアから抜け出したローマ兵捕虜は中央アジアで郅支單于の旗下に入り、木柵を城壁の周りに巡らしたり、亀甲隊形陣を布くなどローマの戦術を披露したものの、漢の陳湯に敗れて降伏し、後に国境防御を任され、その駐屯地は驪靬と名付けられた。



※ オックスフォード大学ホーマー・H・ダブス教授。1957年、ロンドンのCHINA SOCIETYで『漢代の中国にローマ人がいたという証拠をつかみました』と講演。その成果を"A ROMAN CITY IN ANCIENT CHINA LECTURE"と言う本に纏めて出版したが、学会は黙殺。以後三十年、この説は眠りにつくことになった。