シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

石川真生 写真展

johnfante2010-07-25

東京の2つのギャラリーで、沖縄の写真家・石川真生さんの写真展が同時開催されている。
これほどブルースの音と匂いが伝わってくる写真を撮れる人は、そうはいない。



初日の石川真生×今福龍太の対談を見に行ったが、非常におもしろかった。
石川さんが少女時代、コザやキンの繁華街にある黒人専用の米兵バーでいかにモテたか、そして「黒人の女だ」と沖縄の人たちから誹りを受けたかを話していく。
石川さんは沖縄を撮り続けるうちに、そこで知り合った「ブラザー」の米兵をフィラデルフィアのスラム街に撮りに行き、また沖縄のコザやキンで働くフィリピンの女性たちを撮りにフィリピンへ向かう。
つまり、沖縄を撮ることが、沖縄以外のそれらの土地にいる人々と関係を持ち、撮影することと同義だったのである。



それと話を交錯させながら、今福さんが1898年の米西戦争以降、プエルトリコキューバ、グァム、フィリピンなど洋上のスペインの植民地の島々をアメリカが手中にした歴史を話す。
日本の周縁地域である沖縄へ来る米兵は、実は本国では貧しく社会の周縁へ押しやられている、アングロ的ではない非アメリカ的な移民たちである。
そこへ経済格差により、フィリピンから出稼ぎ労働の女性たちがやってきて交錯する。
つまり、沖縄的なるものとは琉球ナショナリズムなどではなく、周縁に押しやられてきた存在同士が交錯するその混淆性にある、というのだ。


この今福さんの挑発に、石川真生さんが必死で怒りを押えているのは誰の眼にも明らかだった。
沖縄の人は、日本という近代国家のなかで虐げられてきた歴史があるだけに、ヤマントンチュに「沖縄」を否定的に言われると感情的になることがある。
しかし、それだけではないだろう。
日本と沖縄が対立するのではなく、むしろ二者に境界線を引くような思考を内側から突き崩す力を持つものが、沖縄という場における混淆性なのではないか。
そして、石川真生の写真はその漲るような力の場を記録しているのではないか、と思い当たった。



『セルフポートレイト』『日の丸を視る目』
TOKYO OUT of Place
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『Life in Philly
Zen Phot Gallery
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