シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

25年間失踪した部族 ②

johnfante2007-06-17

右写真はポエウンさん。
ライ・カモンさんとバンヤオさんの娘。
彼女はカンボジアのジャングルのなかで生まれた。


ルオンさん一家


同様のことが、一緒に逃げたティン・ルオンさんの家族にも起こった。
彼らは、現在カモンさんの住むカララ村から、東へ1時間ほどのロエト村に住んでいる。2つの家族はジャングル生活時代に婚姻によって結ばれた。
カモンさんの娘が、ティン・ルオン(50歳)の息子と結婚したのだ。
ティン・ルオンは、村から1ヘクタールの土地を受け取り、農業を営んでいる。燃えるような太陽の下で、長袖のポリエステルのシャツと綿のズボンをはいて働いている。
「ここでは服が着れるだけいいですよ。ジャングルのなかでは、木の葉を身につけていましたからね」と、ルオンさんは言う。


「それに食料があります。ジャングルでは鹿、サル、野生のブタなんかを狩りました。でも、塩も調味料も何もなかったんです。村では塩どころか唐辛子までありますからね、ありがたいことですよ」
ルオンさんの村への帰還は、損失をともなうものだった。
ジャングル生活最後の日々に、生まれたばかりの子供が死んでしまったのだ。ルオンさんの妻も、ジャングルから出てきて1ヶ月以内に死んでしまった。
ルオンさんは、妻が熱帯雨林で何か悪いものを食べたせいだと考えているが、保健衛生局は彼女がマラリアだったと診断した。
ルオンさんの娘のティン・クヘムさんは、20歳にしては、疲れ果てたような外見である。
ティンさんはジャングルで生まれて、そこで2人の子供を産んだ。彼女は自分は学校に行けなかったが、子供たちには行かせたいと考えている。


タラッドさん一家


「一番難しいのは服でした」と、同じ部族のメンバーであるチャゴウ・タラッドさんの妻で、7人の子供を持つパンセ・タラッドさんはいう。
彼女の子供は、一番上が20代で、下はまだ生後12ヶ月の乳飲み子。
ジャングルから出てくる5年前、最後の服がなくなった。それで、木の皮をたたいて、うんと柔らかくして服のようにして使った。
乗り捨てられたトラックが、靴となったこともある。日常に必要な道具をつくるために、車を分解したあと、タイヤからサンダルをつくったのだ。


「出てきたかったけど、どうやって帰ったらいいかも分からなくなっていました。親戚に再会できて、本当にうれしいです。ジャングルのなかはとても静かだったから」
夫のチャゴウ・タラッドは言う。
「人間の足跡を見つけると、常に隠れました。何か変な音がしても、すぐに隠れるんです」
部族のうち21人の子供がジャングルで生まれ、読み書きできるものは1人もいない。
ジャングルから出てきて、子供たちは病気になりやすくなった。喘息にかかっているものもいる。子供のうちの3人はマラリアも初めて経験した。


人里での暮らしが一番いい


25年間をジャングルのなかで過ごした、カモンさんは言う。
「誰かの嘘によって、こんなことになったのは非常に残念です。誰かというのは、クメール・ルージュ政権時代の地域社会の首長のことですが。もし村へ帰ってくれば、拷問されるだろうと言われたのです。わたしは悲しいし、怒りも感じています。その嘘のせいで、あんなに長い間ジャングルで暮らさなくてはならなかったからです」


25年間、彼とその部族は世界との接触を完全に絶とうとした。
しかし、それは様々なかたちで、ジャングルの生活に押し入ってきた。人間の指紋、トラック、伐採者の残したキャンプ跡など。
最終的に、彼らの恐れは好奇心に打ち負かされた。
それでジャングルを抜け出して、ラオスで亡命者として保護を受けようとしたのだ。その場所で内戦とベトナムによる侵攻が、大昔に終わったことだと知らされたのである。
2004年11月、ラタナキリ県の知事カム・コーエンは、ラオス当局から電話を受けた。34人のカンボジア人が、国境沿いで発見されたという報せだった。


彼らがジャングルから出てきたとき、トラックのタイヤの跡を見て不安を抱いた。
エンジンの音を聞いたら、ベトナム兵を怖れ、森の奥へと逃げこむ習性がついていたからだ。
でも、いつかは本物の車に乗ってみたいと夢見てもいた。
いまクララ村には、一台の車があり、それを毎日眺めることができる。
カモンさんは貧しくて、自分で車を所有する日が来るとは思えないという。
そのかわり、クメール音楽という新しい楽しみがある。
ジャングルでは鳥の歌声しかなかった。
近所の人のラジオで、クメール音楽を聞き、音楽を耳にしたことのなかった子供たちに聞かせるのが、何よりも幸福だという。



カンボジア内戦。1979年1月、ベトナムポル・ポト打倒を掲げ、カンボジアプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊。しかし、ベトナム軍は山深くに潜んだポル・ポトを捉えられず、ゲリラ化したポル・ポト派との内戦の泥沼におちいった。
88年6月、ベトナムは東南アジア長年の懸念であったカンボジア駐留軍の撤収をはじめ、翌89年9月に撤退を終えた。その結果、軍事的な支えを失ったフン・セン政権は急激に弱体化。完全な強者のいなくなったカンボジアは、国際社会によって和平へ導かれた。