シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

小説家が読むドストエフスキー ②

johnfante2007-09-09

小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)


ラザロの復活


病跡学的な見地から書かれた前著『ドストエフスキイ』との最大の違いは、本書が加賀乙彦キリスト教受洗の後に書かれたという点であろう。
キリスト教の知見からドストエフスキーを読み直す」という新たな観点が加わっているのである。
死の家の記録』で主人公の大切な聖書を盗む人物が出てくるが、実際は盗まれずにドストエフスキーは監獄で聖書だけを読んでいた。
そんな人間が書いた『罪と罰』を、江川卓小林秀雄のように信仰の観点を抜きにして読解するのはおかしいと加賀は言う。


ドストエフスキイ (中公新書 338)


では、ラスコーリニコフは犯行を告白する場面で、なぜ聖書のラザロの復活の部分をソーニャに読ませるのか。
ヨハネ福音書」の十二章一節は腐って臭いを発していたラザロの死骸が生き返る場面である。
加賀の考えでは「死んだ人間が復活するなんて信じられない人は、キリスト教者にはなれない」のだから、死者の復活はキリスト教信仰のなかでは躓きの石である。
同時に、この部分はドストエフスキーが流刑中に何度も読んで涙を流した箇所であり、彼は『罪と罰』の核心部分でラザロの復活を延々と引用した。
ラザロの復活が人間の魂が一度死んで、また生き返ることの象徴としてあるからこそ、死刑執行の直前に許されたドストエフスキーにとっては感動的だったのであり、『宣告』の書き手がこだわる部分でもあるのだろう。


罪と罰〈上〉 (岩波文庫)


死の家の記録


本書ではあまり触れられていないが、『死の家の記録』の大きな魅力の一つとして「ロシアの民衆」の生き生きとした姿が挙げられる。
これら囚人の一人一人が原型となり、後のラスコーリニコフやスタヴローギンに発展していったことは定説である。
だが一口にシベリアの監獄の住人といっても、その構成員はロシア貴族からチェチェン人、東欧系ユダヤ人、タタール人まで多種多様である。


死の家には酒が飲まれ、毒舌合戦があり、囚人芝居が催され、ユダヤ人が金貸しを営む濃縮した生の世界がある。
加賀がパスカルの言葉を借りて言うように「人間はすべて死刑囚であって神にいつ殺されるかわからない」のであれば、個の消滅まで限りある時間を十全に生きたいと願うのもまた私たち死刑囚であろう。
『宣告』が長尺を読ませるのは、登場する死刑囚が短く苦しくも充溢した生をいきているからで、それこそ加賀が他ならぬドストエフスキーから受け取ったものではないか。



初出 :「三田文学