シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ベルトルッチとボルヘス ①

johnfante2007-11-24

ベルトルッチ、クライマックス・シーン (リュミエール叢書)

ベルトルッチ、クライマックス・シーン (リュミエール叢書)


右写真はベルトルッチ監督の映画『暗殺のオペラ』のポスター
原作はボルヘスの小説「裏切り者と英雄のテーマ」(『伝奇集』)


『暗殺のオペラ』のベルトルッチ


一九五六年、ローマ。
映画フィルムのセルロイドの夢そのものになるため、ブエノスアイレス州の田舎町からマヌエル・プイグはローマにやってきた。後にアルゼンチンのベストセラー作家となるプイグは、まだ二四歳の映画青年でしかなかった。
この年同じローマで、ベルナルド・ベルトルッチなる十五歳の少年が『ロープウェイ』『豚の死』という十六ミリ映画を二本製作していた。
ベルナルド少年は、三年前に北イタリアのエミーリア地方から家族とともにローマに移ってきて、階下に住むピエロ・パオロ・パゾリーニという方言詩人に自分の詩を批評してもらっていたが、高校に入った年に意を決して映画製作をはじめた。


パゾリーニが世界に対し宗教的な態度をとったのとはちがい、ベルトルッチは世界に官能的に接しようとした。
ベルナルドは幼年期の夢をみる。エミーリア地方の村で、夏の夕べに長い竿でこうもりをたたき落とす遊びをしている。やがて暗くなり、夕食を食べに帰るが他の男の子や女の子はまだ一緒にいる。ベルナルドは女の子がこわかった、それと同じ理由から崇めてもいた。
そんな彼にとって種牛の交配をのぞき見をするときは、女の子に近づけるチャンスであった。わらの山によじのぼり、干し草置き場のかげでこっそり行われる儀式を好奇心いっぱいで見守った。種牛はすぐに射精したが、やめようとしなかった。すると農夫が冷たい水をバケツ一杯、牛の鼻面にぶちまけた。
農夫の娘たちは、みな共産主義者であった。ベルトルッチ監督は後年、『暗殺のオペラ』という映画は実際の人生に影響をうけたものだと語り、その舞台をエミーリア地方に特定した。



ベルトルッチの『革命前夜』


ボルヘスの原作


『暗殺のオペラ』は、着想された時点から呪われた映画であった。
原作の小説「裏切り者と英雄のテーマ」(『伝奇集』所収)を書いたアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスは、自分の物語からひとつ選んで、それを引き延ばそうとするなら、あるいは地方色でつぎ当てしようとするなら、映画は失敗に終わるだろうと予言していた。
しかし一九七〇年、三十歳に成長したベルトルッチはそれらの禁じ手をあえて使って映画にした。翻訳の文庫本で七ページに満たない物語は、肉づけをされ九九分の映像に拡張された。圧迫されながら頑強に抵抗するある国とされていた舞台は、エミーリア地方の架空の町タラという明確な地方色で脚色された。


真夏のある日、タラの町にアトス・マニャーニがやってくる。
二十数年前に暗殺された反ファシストの英雄、同姓同名のアトス・マニャーニは彼の父である。息子アトスは、父アトスの死の真相を突き止めにきたのだ。
一九三六年六月十五日に、タラの歌劇場でヴェルディのオペラ『リゴレット』の上演中に、父アトスは桟敷席で何者かに背中を撃たれた。息子アトスは父のかつての同志であった映画館主、教師、ハム屋に話をきく。三人によれば、歌劇場に列席する予定のムッソリーニの暗殺をはかったが、何者かに密告され父アトスはファシストに暗殺されたという。
息子アトスは父の三人の同志を疑うが、真相は父アトスこそが裏切り者であったのだ。そして、三人の同志がファシストの犯行に見せかけて父アトスを処刑した。
しかしさらなる真相は、ファシズムへの憎悪を民衆の心に刻みつけるために、父アトスがあえて裏切り者の役を演じ、仲間に処刑されるように仕組んだのであった。町には英雄として、アトスの記念像が建てられている。


伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

暗殺のオペラ [VHS]

暗殺のオペラ [VHS]