シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ベルトルッチとボルヘス ②

johnfante2007-11-28

ボルヘス伝

ボルヘス伝


右写真は『暗殺のオペラ』のワンシーン
原作はボルヘスの小説「裏切り者と英雄のテーマ」(『伝奇集』)

映画化の可能性


ボルヘスの短編を映画にするとき、ベルトルッチボルヘス文学を、もつれあい絡みあいながらも生きて成長している迷宮として、一種の森としてとらえ次のように考えた。
人は二度同じ河に降りてゆかない。流れる河の水はつねに変化する。しかしそれよりも恐ろしいのは、人間が流れゆく河に劣らず移ろいやすいということだ。
書物を読むと、その度にその意味は変化し、語の意義も変化する。ボルヘスはもはや五〇年代にロジェ・カイヨワが仏語に訳したボルヘスではない。
それはベルトルッチボルヘスなのだ。ボルヘスベルトルッチの手によって生まれ変わった。書物は読者によって豊かなものにされていくのである。


父と息子の短い挿話……。
ある日ボルヘスは、詩人であった父とまったく同じ声でシラーの詩を朗読している自分に気づいた。父が、朗読する自分のなかに生きていると実感した。ボルヘスの声は父の声の反映であり、父の声はおそらく先祖の声の反映だった。
このときから、祖先と自分のあいだの、伝統と新しいもののあいだの、秩序と冒険のあいだの対立は彼にあって極小化された。伝統は長い歳月にわたって行われてきた冒険の歴史を含むものなのだ。
父はアナーキストであった。ボルヘスヒトラーに反対し、反ユダヤ主義に反対し、共産主義に反対し、自国アルゼンチンの独裁者ペロンに反対した。
一九四六年、ペロンが大統領として権力を握るとまもなく、ブエノスアイレス市立図書館の職員だったボルヘスのもとに公共市場の、家禽や兔の検査官に昇進させるという知らせが届いた。ボルヘスは事情をただすため市役所にいった。事務職員は答えた、あなたは連合国側を支持していましたね、それでまだ何か? 翌日ボルヘスは辞表を出した。



ボルヘス家と反逆の精神


一九四八年、ボルヘスの母親と妹のノラは市内での集会で反政府ビラを配って歩き逮捕された。母は自宅監禁され、辱めるために売春という口実でノラは刑務所へ送られた。
ノラはボルヘスに手紙をよこし、刑務所にはチェス盤みたいな白黒の美しい中庭があるし、そこにいるのはカクテルパーティなんかに行くよりはるかにいいという。
出所してからノラはボルヘスに云った。祖父は塹壕で死に、祖父の父親はスペイン人と闘った。だから私は娼婦として牢に入れられただけでも、独裁者に対しやはり何かをしていることになるのだ、と。
娼婦としてあることは英雄的でさえあるのだ。ボルヘス家の伝統は、個人こそが強くなり国家が弱くなるべきだと考えるように子供を育てた。


そこでボルヘスは、市民である前に自分は一人間であると考えた。
コミュニズムとか、ファシズムと呼ばれる国家の悪弊、それとの闘いのなかに、ボルヘス個人主義は積極的価値を見いだした。
しかし一方で、自分のなかの愛国心なる幻想はうち消しがたかった。それにたいしては「紀元一世紀、プルタルコスアテナイの月はコリントスの月にまさると高言する連中をからかった」として背を向けつつも、ボルヘスはその先祖のようにアルゼンチンのために闘うことを欲した。
だが、生来の虚弱な体質がそれを許さなかった。だからボルヘスは、個人主義愛国心のはざまで揺れる男の物語を書いた。みずからの生をかけて強大なファシズムをからかい、英雄と裏切り者の市街劇を市民を巻き込こんで演ずるというオペラ。
その危険な企てを書物にたくすことが、ボルヘスにとって家族の伝統に参画する唯一の手だてであったのだ。


初出:「発言者」



ボルヘスとわたし―自撰短篇集 (ちくま文庫)

ボルヘスとわたし―自撰短篇集 (ちくま文庫)