シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

マヌエル・プイグと映画 ②

johnfante2007-11-21

蜘蛛女のキス (集英社文庫)

蜘蛛女のキス (集英社文庫)


「蜘蛛女のキス」小説と映画


マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』では、男性原理に対する女性原理の優位が説かれているのではない。
そうではなく、拷問する者とされる者、国家権力と革命家というロジックを無化する者として、オカマの存在がクローズアップされている。男性/女性という対立構造から宙吊りになれる者は、資本家/労働者といった対立から身をそらす機微をも持ちあわせているのだ。
エロティシズムによる消尽のモチーフは、前作『ブエノスアイレス事件』から継続されている。主人公のレオは学生時代に反体制的なビラを印刷し、秘密警察に捕まって拷問される。
レオはそのさなかに、「キリストの殉教者たちが味わったに違いない性的喜悦を感じ」ることによって、拷問をする行為それ自体を無意味に化してしまうのだ。


バレンティンの屈託は、上流階級の娘に恋している自分が、革命家として矛盾しているかどうかということだ。だから「愛する心」は、人間の弱さにちがいないと考えている。
ところで、獄中で食べ物に拷問用の毒を盛られ激しい腹痛と下痢に見まわれたとき、バレンティンモリーナの献身的な看護の世話になる。そこでバレンティンは娘との恋をモリーナに告白する。
感傷的な自分にバツの悪さを感じたバレンティンは「なんだか、ボレロ臭いな」と照れかくしを云う。それに対して、モリーナは「ボレロって、真実を突いているのよ。だからこそあたしは大のボレロ・ファンなんじゃない」と答える。
愛に生き、愛に死ぬという当然のことを、熱情をもって全身で表現するボレロの踊り子たち。哀しみに打ちひしがれ、死ぬまで生きることを義務づけられた人間は、生のステップを踏みやむことができない。ボレロの情念は、バレンティンの心にも首をもたげる。



映画版『蜘蛛女のキス』


オカマのラディカルさ


ジッとしていると体がムズムズしてくる踊り子も、狂乱する群衆のまえに血が騒ぐテロリストも、自分の欲望を拡充しようとしている点では何らかわるものではない。
しかしモリーナのボレロは、ある意味ではテロ行動よりもラディカルな抵抗なのだ。そのエロッティックな身体運動とステップは、イデオロギー対立を踏みつけにし、オカマという個別の差違を獲得しようとする。
そのときから、みせかけの政治権力との争闘ではなく、人間精神が自分自身を限定づけている本物の敵、制度との争闘が幕をあけているのだ。


ところで、モリーナにとってのボレロは、プイグにとってのハリウッド映画にも相当した。
映画へ片恋をしたためプイグは世界各地を点々としたが、結局は一方的に振られるはめになった。それでも病的なまでに一途なプイグは、小説へと舞台を移して映画への恋慕を踊りつづけた。
映画『蜘蛛女のキス』を観た席上で感想を聞かれたら、プイグは迷わず次のように答えただろう。「だって、惚れちゃったんだから、しょうがないじゃない?」


こうしてガルシア=マルケスやプイグの例をみるだけでも、映画が二○世紀の精神に当てた光のまばゆさと落とした影の深みが推しはかられる。
着目するべきなのは、若き日の二○世紀的精神が、他ならぬこの映画というものを通じて、みずからを鍛え飛び立っていったということだ。
どこから入ってどこへ出て行こうと、映画はまるで大航海時代の大西洋のように、ひとつの試練の場として私たちの前に君臨し続ける。
だから、従来の文学・映画の一方通行は、もはや何の意味も持っていない。映画は小説世界を肥沃にする素材の源であり、また、想像力の海へと人々を解き放つ港でもあるのだ。


初出:「発言者」


蜘蛛女のキス [VHS]

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