シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

文人と握りずし

johnfante2007-12-10

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)


右写真は、北大路魯山人志賀直哉が愛した店「銀座 久兵衛

志賀直哉とすし


握りずし店の杉材の立派なカウンターに座ると緊張しますね。
板前さんに面と向かって注文するためか、並びの他の客の目を意識するせいか。そんな時に気になるのがすし店でのマナーです。
結論から言えば、握りずしは江戸の庶民のための気軽な屋台店から誕生したもので、こうるさい作法などありません。
当時は屋台店が橋のたもとや銭湯のそばなどに出ていて、江戸っ子はサッと二、三つまんであとは土産にして帰ったそうです。
江戸前の毒舌で知られる文学者の小林秀雄などは、若い貧乏生活の頃も、銘酒屋の女へ通うときは必ず穴子ずしを持っていったそうです。


そんなキップのいい江戸前のカウンター席には、メニューの価格表示などという野暮ったいものはなく、算数の不得意そうな板前さんが暗算で会計をしますが、思っているよりも勘定の高いことが多いですね。
お勘定の不明朗さも、カウンターで緊張する原因の一つでしょう。
志賀直哉の書いた「小僧の神様」という有名な古典があります。
屋台のすし店に小僧が入ってきて、一度手に持ったすしを値段を言われ、また置いて食べずに出ていくという話です。
この小説が書かれた大正八年の昔から、すでに握りずしが高価で不明朗会計だったことがわかります。


さて、同じ小説のなかに「通は魚の方を下にして食べる。魚が悪かった場合、舌にヒリリとすぐ知れるからだ」という会話が出てきます。
もちろん江戸前で箸を使うのは邪道で手でつまんで食べるものですが、ネタとシャリのどちらを上に、また醤油をどうつけて食べるものなのでしょうか。
決まりではありませんが「ネタを下につけずに食う」「シャリを下にシャリの先に醤油をつける」「ひっくり返し、ネタに醤油をつける」の三つの方法がとられています。
通はすしを指先でつまみ、手首を返し、ネタをひっくり返すのが常識になっています。
ワサビはつけ醤油に溶かず、ネタについているのだけで食べる方がうまいとされています。


岡本かの子とすし


岡本かの子 (ちくま日本文学全集)

岡本かの子 (ちくま日本文学全集)


では、握りずしはどのような順序で食べるのがいいのでしょう。
カウンターに慣れた人は、鮨ダネを肴にビールなどで晩酌をした後、たいて中トロなどの脂っぽいものから入ります。
続けて穴子やシャコなどをたのみ、段々あっさりした光りモノの魚などに移り、最後に玉子とのり巻きに終わります。
玉子を最初に食べるのがすし通だという意見もあります。
それは店の腕前のよしあしが、玉子焼きのダシの味、焼き加減、巻き具合などでわかるからです。 


岡本かの子に「鮨」という小説があります。
そのなかに、神経質すぎて食べ物を吐いてばかりいる子供が、眼前で母親の清潔な手がすしを握るのを見て食欲をとり戻すというエピソードがあります。
目の前で人の手の握ったものが、すぐその場で人の口のなかに入っていくこと。
それが握りずしならではの本質だとすれば、江戸っ子でなくても、マナーや作法などあまり細かいことは言わずにおこうかという気になるのではないでしょうか。