シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ペレを買った男 ②

johnfante2008-05-13

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ペレの入団


感動的な引退から9か月後の6月10日、北米サッカーリーグNASL)のニューヨーク・コスモスが、すでに引退しているペレ(当時34歳)の入団を発表して世界を驚かせた。
世界中に衝撃が走った。
ロスはペレに愛するブラジルを離れ、立ち上げられたばかりのニューヨーク・コスモスに移籍する説得をした。
ティーブ・ロスは、実にアメリカ的な発想をもっていた。
「ないものは奪え。最後は結局、金がものを言う」


しかし、これにブラジル大統領が難色を示す。
国の至宝であるペレを国外に持ち出されては困るというのだ。
当時、ワーナー社はロックフェラー・ビルに入っており、ロス自身ロックフェラーの部下で、彼と親しかった。
ロスは、ネルソン・ロックフェラー(当時の副大統領)とキッシンジャー(後の国務長官)とのコネを使い、ブラジル政府に圧力をかけて、ペレの獲得を承諾させた。



ペレ曰く「驚いたよ。あんたたちは何でもできるんだな。俺はあんたたちについていくよ」
ロスとワーナー社により、ペレは当時、地球で最も金持ちのプロ・スポーツ選手となった。
移籍金は450万ドル(約14億円 当時の値で算出)。
当時の最も高給のメジャー・リーガーのハンク・アーロン年棒が20万ドル(約6000万円)という時代だから、それは破格の金額だった。
裏ではレアル・マドリードユベントスも獲得に動いていた。


ロスのペレに対する殺し文句はこうだった。
「あなたがヨーロッパに行っても、優勝することくらいしかできない。が、アメリカにくればあなたは一国を征することができる」 
ペレも、サッカーの根づいていない最後の大国に行き、開拓することに興味を覚えた。


スーパースターの結集


ティーブ・ロスは、ペレのことをサッカー選手とは見ていなかった。
彼には、ペレは世界ブランドを意味した。
ベレ・シューズ、ぺレ・ジャージ、ペレのオーデコロンなど、ペレのグッズを世界中で売ろうとしていた。
6月18日、ペレのデビュー戦には、世界の至宝をひと目見ようと、2万2500人の観客が押し寄せた。
ペレに合わせて、コスモスのユニフォームをブラジル代表と同じ黄色のデザインにした。
ペレは期待通りの活躍。しかし、このシーズンのプレーオフ進出を逃した。
それでも、ロスはアメリカでサッカーが受け入れられ、メジャースポーツになると信じていた。


ティーブ・ロスはペレ獲得だけでは満足していなかった。
76年、まず本拠地をヤンキー・スタジアムに戻し、次にイタリアの名ストライカーで、選手としても最盛期のジョルジョ・キナーリャと契約を交わす。
キナーリャは期待通りの活躍を見せて、その年の得点王に。プレーオフ進出を果たすも、決勝で同じくヨーロッパから助っ人を呼んだタンパ・ベイに3−1で負けてしまう。
ロスは不機嫌になった。人一倍負けるのが嫌いだったのだ。
その後、ヨーロッパへエキシビジョン・ツアーに出かけて、選手たちをスターのように扱った。



77年、スティーブ・ロスはさらなる攻勢にでる。
7ヶ国から14人の選手を呼び、次々とスターを呼び寄せることによって、コスモスが無視できない存在となり、マスコミ報道が過熱。
コスモスはスポーツの枠を超えたアメリカのセレブになる。
NASLは全国テレビ放送で7試合の契約を結び、初めてサッカーがMLBと同様に、多くの人をひきつけた。
チームのホーム・グラウンドは、新しく建設された巨大なジャイアンツ・スタジアムへと移った。
チアリーダーバックスバニーのマスコット、ハーフタイムショーなど、試合にはアメリカンな味付けが行われた。


さらなる攻勢


そして、5月にヨーロッパサッカーの大スターであり、ドイツの主将でもある「皇帝ベッケンバウアー」がコスモスと契約。
7月には続いて、ペレを慕っていたブラジル代表の主将のカルロス・アウベルトが合流。


※ ベッケンバウアーミッドフィルダーで、長い間ドイツ代表を率いた。引退後はドイツ代表の監督で、Wカップ優勝に導いた。現在はワールドカップの委員長。カルロス・アウベルトは70年のWカップでブラジルを優勝に導いた主将。ディフェンダー


このときまでに、ニューヨーク・コスモスは、ほとんどの選手が外国から来たスター級の選手ばかり、という状態になった。
それは「あのペレがいるんだから…」という前例を作ったのが勝因だった。
こうしてニューヨーク・コスモスは、世界中からスーパースターたちが結集。
かつて誰も見たことのない、セレブな最強のサッカーチームへとのし上がった。
6月のタンパ・ベイとの試合には、6万2319人もの観客が観戦。
ヤンキースを超える観客を集めるのは、もうロスが仕掛けたコスモスのサッカーしかなかった。


1977年の夏、ニューヨークでは「コスモス現象」が起きていた。