シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ペレを買った男 ①

johnfante2008-05-09

ペレを買った男 [DVD]

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ティーブ・ロス


ティーブ・ロス(Steve Ross)は、ニューヨーク州のブルックリン生まれ。
1954年、27歳のときに、ニュージャージー州の葬儀屋で、駐車場を持っていた経営者の娘と結婚。
その小さな会社「キニー・ナショナル・カンパニー(Kinney National Company)」を、54年を境に駐車場経営、オフィス清掃、建設業、俳優事務所と脈絡なく手を広げ、大きな企業グループへと拡大することに成功。社長に就任する。


67年にハリウッドの俳優事務所アシュリー・フェイマスを買収した後、ロスはそこの経営者から、資金難にあったワーナー・ブラザーズ=セブン・アーツを買収するアイデアを打診されて、買収に成功。
72年までに、1つの映画会社と6つのレコード会社を統合。
巨大複合企業ワーナー・コミュニケーションズの創設者となり、CEOの座についた。
さらにケーブルTV局と、ゲーム会社(アタリ 家庭用ゲーム)を手に入れて、ロスはアメリカを代表する元祖メディア王となった。

ニューヨーク・コスモス


70年代にいたるまで、スティーブ・ロスはサッカーの試合を見たことがなかった。
買収したアトランティック・レコードの創設者であるアーティガン兄弟が、一緒に働いていた。
兄のネヒスが会社を去るとき、ロスは「願いをかなえるから、残ってくれ」と言った。
すると、トルコ大使の息子であったネヒスは、夢であったサッカー・チームを持ちたいと言った。
アメフトは既にTV中継がはじまり、新規参入には莫大な金がかかることだった。
サッカー。チームなら格安でスタートできる。


兄弟は物色をはじめた。コスモスになる前身となったNYのセミ・プロのチームは、さまざまな人種が集まっていたが、その多くは昼間に他の仕事をかかえるセミ・プロの寄せ集めにすぎなかった。
建設会社の技士、黒人地区の教師など。
チーム最初の得点王は、ワーナーのサファリパークで働く男だった。
ふだんのゲームで、観客は選手の家族を中心に50人程度。
72年の雨の日、チームが勝利したとき、1人の男が大喜びして選手にタオルを配った。それがスティーブ・ロスだった。
ワーナー社は、たった1ドルでそのチームを譲り受けた。



『ペレを買った男』予告編(英語版)


ロスとアーティガン兄弟は、71年にアマチュア・リーグ時代の選手を中心に「ニューヨーク・コスモス」を発足。
このときから、ロスはサッカーにとりつかれることになる。
このメディア王はサッカーというスポーツの何かに魅了され、当時、アメリカでほとんど人気のなかったサッカーを、MLB級のメジャー・スポーツにするという野望を抱いたのだ。
そして、NASL(北米サッカー・リーグ 当時は6チームが加盟)に参入するが、大方の予想通り人気は低迷。


ヤンキー・スタジアムで開催されたコスモスの創立記念試合には、かき集めても、わずか3476人のファンしか訪れなかった。
サッカーのような動き続けるスポーツだと、アメリカ人は集中力が続かない。
野球、バスケ、アメフト、ホッケーなどアメリカのプロ・スポーツは、人工的な間をつくり、観客が飲み物やスナックを楽しめるようにしている。
サッカーにはそれがなく、アメリカで人気がなかった。


サッカーの王様、ペレ


ティーブ・ロスは、クラブ名を「ニューヨーク・コスモス」(精確な発音はコズモス)にした。コスモスは日本語で「国際的」を意味するコスモポリタンが由来である。
これはメジャーリーグに所属するニューヨーク・メッツがメトロポリタンの略称である事から、ヒントを得て、都会人より規模の大きい国際人を選んだという。


74年、スティーブ・ロスは、コスモスのホーム・グラウンドを、よりマンハッタンに近い場所に移動。
集客効果を狙ってのことだった。
しかし、そこは貧困者や精神病者を収容する保護施設の跡地、ランダルズ島にあるダウニング・スタジアム。橋の下にあって昼間も暗く、島に他にあるのは監獄だけだった。
フィールドの芝がはげているので、緑色のペンキを塗って使った。


DVD>ペレ サッカーベストシーン (<DVD>)


この年、コスモスは4勝14敗2分で、リーグの最下位に転落。
観客はわずか1000人たらずにまで落ち込んだ。
75年、スティーブ・ロスはサッカー事業に本腰を入れることを決めた。
とにかく、ビッグ・ネームが必要。それがスティーブ・ロスの考えだった。


サッカーの王様、ブラジルのペレ(本名 エジソン・アランテス・ド・ネシメント)の最後の試引退合は、74年10月2日、サントスFCのホーム・グラウンドでだった。
サンパウロ洲リーグ、対ポンチ・ブレッタ戦は、3万5,000の観衆でいっぱいになった。
 前半20分、ペレはひざまずき、そのまま両手をあげて別れを告げた。
ユニフォームを脱ぎ、高くふりかざして場内を一周し、観衆は「ペレー!ペレー!」を合唱した。


※ ペレは16歳でブラジル代表、17歳でワールドカップにデビュー。合計4度のWカップでブラジル代表を3度の優勝に導いた。
パーフェクトなバランス、百メートル10秒台のスピード、ヘディングの飛躍力など、サッカー選手に必要なものすべてを持ち合わせていた。20世紀最高の選手とも、サッカーの王様とも呼称される。