シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ペレを買った男 ③

johnfante2008-05-16

ペレを買った男 [DVD]

ペレを買った男 [DVD]


コスモス現象


コスモスは有名なディスコ「スタジオ54」の花形となった。
シャンパン、女たち、音楽、ダンス、リンカーン、高級ホテル。コスモスの選手たちは、至上の贅沢に酔いしれた。
同時に、コスモスは何百万人というアメリカ人たちの最愛のチームとなった。
ティーブ・ロスはロック歌手、男優、女優、政治家、財界人を、次々とゲーム観戦に招待した。
そして、ロッカールームは常にパーティのような状態だった。
顔色の悪いミック・ジャガーが警備員につまみ出されたのも、この時期のできごとだった。


この年、ペレが契約最後の年で、引退をすると決めていた。
ロスだけでなく選手たちも、何とか優勝してペレを送り出したいと本気で願った。
8月、ジャイアンツ・スタジアム(アメフトNYジャイアンツ、ジェッツの本拠地 収容数約8万人)で行われたプレーオフでは、7万7691人の観客が集まった。
世界最大級のフットボール・スタジアムのチケットが完売。その大観衆の前で、コスモスは見事に勝利。
「このまま行けば、国技である野球をこえて、もっとも人気のあるスポーツになる」とジャーナリストに言わしめた。
ティーブ・ロスが米国の「サッカー王」になった瞬間だった。


そして、いよいよ8月27日のチャンピオンシップ「サッカー・ボウル」に出場。
シアトルをキナーリャのゴールで2対1で破り、優勝を飾る。
これがペレの公式戦、最終試合となった。
コスモスはチャンピオンシップに優勝し、世界中をツアーでまわった。
野球、バスケ、アメフト、ホッケーが主流だった、アメリカのプロ・スポーツの世界に「サッカー革命」を巻き起こした瞬間だった。


その衰退


78年、ペレの抜けた後、ベッケンバウアーを中心にチームは勝ち進み、再びチャンピオンシップで優勝を果たす。
この年も、7万人以上の観客を動員し続けた。
世界中で注目を浴びた彼らは、ヨーロッパと南アフリカへツアーに出かけた。
しかし、決勝のテレビ視聴率が週末にもかかわらず、平均2・7%と振るわなかった。これでは200万世帯しか見ていない計算。
三大ネットワークであるABCは、視聴率の不振から、テレビ中継からの契約取り消しと撤退を決定した。



いくらスティーブ・ロスでも、最もパワフルなメディア、テレビの力を借りなければ、北米サッカー・リーグをアメリカのメジャーにまで押し上げることはできなかった。
サッカーの試合を、ネットワーク・テレビという足場を得ることに失敗したとき、メディア界の大物の夢、そして彼のサッカー・チームは崩壊をはじめた。
さらにニューヨーク・コスモス内で、キナーリャを中心に主導権争いがはじまった。
そして、サッカー人気とともに、リーグは20チーム以上にまで膨れ上がっていた。なかにはセミ・プロ以下のレベルしかないチームもあり、試合の内容が薄味になった。


その崩壊


80年代に入るとワーナー社が、オーストラリアのメディア王ルパード・マードックにより敵対的買収を受けた。これはマードック側の失敗に終わった。
アタリはワーナー傘下に入って以降、ワーナー・コミュニケーションズの利益のかなりの部分を占めるグループの稼ぎ頭だった。
だが、83年にゲーム市場の崩壊(アタリショックソフト会社の乱立によるソフトの質の低下)が起こると、ワーナー・コミュニケーションズの株価も低落した。
ワーナー社は赤字に落ち込み、企業を守るために、コスモスの売却せざるを得なくなった。
83年、ロスは翌年のW杯をアメリカで開催するためにかけずりまわったが、FIFAは開催国をメキシコに決定した。これで完全に息の根を止められたも同じだった。


こうしてリーグが拡大しすぎたことと、法外なプレイヤーの給料を支払うことができなくなり、84年にニューヨーク・コスモスは解散。
そしてこの流れに呼応するかの様に1984年に北米サッカー・リーグが消滅。
クラブはその後1年間だけインドアサッカー(現在のフットサル)のクラブとして存続したが、成績の低迷を理由に1985年を最後に解散した。
爆発的な人気を一瞬にして得たのと同じように、サッカーはアメリカから消え去った。


コスモスの遺産


しかし、ニューヨーク・コスモスは遺産を世に残した。
マンチェスター・ユナイテッドレアル・マドリードのようなスーパー・クラブの原型を作り上げただけでなく、ペレの契約はベッカムロナウジーニョらのテンプレートとなった。
輝かしいコスモスを観て育った世代は、アメリカの男子サッカーや女子サッカーを根づかせることに成功した。
70年代にコスモスのベッケンバウアーと一緒に、新聞の写真に載った少年は、90年W杯のアメリカ代表チームの主将・ウィンディッシュマンだった。
06年、アメリカはFIFAランキングで8位にまでのぼり詰めている。プロ・スポーツとしては根付かなくても、競技人口ではアメリカはサッカー大国となりつつある。


96年にはMLS(メジャーリーグ・サッカー)が発足。
デビッド・ベッカムの移籍(LAギャラクシーへ約298億円で移籍)も話題になった。
ティーブ・ロスは92年に死んでしまったので、現在のその成功を見ることはできなかった。
しかし、ロスやアーティガン兄弟の夢と情熱がなければ、アメリカのサッカーが育たなかったことは事実である。彼らは少なくとも20〜30年、やることが早かったのだ。


今やアメリカでは、大勢の少年、少女たちが、世界のスポーツであるサッカーを楽しんでいる。
「サッカーは今日のアメリカで最もプレーされているスポーツ」(「ヴェラエティ誌」)と言い切るジャーナリストもいる。
30年前にはありえなかった光景だが、現在では学校のグラウンドや広場には、必ずサッカーのゴールが置いてある。
05年の時点で、子供たちのサッカー人口は1800万人以上(米国青少年サッカー組織登録者数)になった。