シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

芥川龍之介による志賀直哉 ②

johnfante2008-05-26

清兵衛と瓢箪・小僧の神様 (集英社文庫)

清兵衛と瓢箪・小僧の神様 (集英社文庫)

「濁った頭」


芥川の目を借りて、志賀直哉の短編小説「濁った頭」を呼んでみると、どうなるのでしょうか。
逃避行を続ける二人を描いた、八章の終わりの畳屋の描写があります。


「畳屋がぶつりぶつりと刺す長い錐を見つめている内に妙に胴震いがして来ました。柄の所までぶつりと深く刺す。鋭い錐が気持よく台を通す。それを見ていると何という事もなしに息がはずんで来て、私はもう凝っとして居られなくなりました」


長い錐がぶつりを台を通します。主人公はそんな「痛快な感じ」の生活に入りたいと思います。
これが胴震いという「身体感覚」で捉えられています。これは無論、後にお夏を殺すことの予兆となっています。
二重三重に様々な感覚を重ねた詩的な喩としての「錐」の天才的な使い方です。理屈じゃない感じがあります。
これが芥川が言うところの「リアリズム描写と詩的精神の結びつき」という志賀直哉の特徴なのでしょう。

どうして名文なのか


九章の冒頭にも、秀逸な描写があります。


「縁のない、やけて赤くなった畳に晩春の穏やかな朝の光が一杯に差し込んでいる。その陽の当っている処に、蝿が群って騒いで居る。波の音、鶯の声、これらが絶えず聞える。日を背にした彼方の山の側面が煙ったように紫色をしています。風もなく、妙にぼわんとした、眠たげな朝です。私の頭も眠ったように静まっています。只時々幽な不安に襲われます。」


名文です。
外界のリアルな描写から接続されて、主人公の「私」の精神的な崩壊が、神経衰弱ぶりが窺えるようになっています。
十章の水車の喩も秀逸です。


「私は泥酔した人のように眼を据えて廻る小さな水車を見詰めていました。見詰めてる内に頭がボーッとして来たと思うと、水車の車が段々に早く廻って来ました。(…)流れの音も、鶯の声も総てのもの音は聞えなくなりました。(…)その内それは段々と大きくなって、私の目に迫って来ます。もう見詰めてはいられません。私はその儘其処へ昏倒してしまったのです」


人間の意識というのは、外界の事物の反映です。
意識の歯車が狂っていく様子が、水車という喩を使って書かれています。
 

志賀直哉の特徴は、描写上のリアリズムや詩的性質だけではありません。もちろん、テーマの問題もあります。
志賀直哉キリスト教の問題、性欲という道徳的な精神の荒廃とそれとの闘争ゆえにもたらされる神経衰弱など。
特に神経衰弱に関しては、芥川とも共通するテーマでした。
それが屈託のない、広々とした精神で、真正面から向き合われているがために、芥川は志賀直哉を大作家ではなく純粋な作家と呼んでのではないでしょうか。