シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

オドラデク ②

johnfante2008-06-30

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)


上はオドラデクが登場する「父の気がかり」所収の本

物自体説


澁澤龍彦が言う、オドラデク=物自体という説を真に受けるとどうなるか。


カント哲学の以前には、二つの代表的な考え方があった。
一つは「経験主義」。
事物をありのままにとらえるためには、自分の経験を通して得られるものが最も信頼できるという考え(山がある→人間には山が見える)。
もう一つは「観念論」。数学の定理や論理操作など、人間の悟性の方がより信頼できるという考え(人間が山を見る→山はある)。


しかし、カントの「認識論」(『純粋理性批判』)では、実際には感覚を使おうが、悟性を使おうが、私たちは主観で物をみたいようにしか見ないのだから、認識として得られるのは現象というイメージだけにすぎない。
ありのままの物は人間の外部にあり、感覚や推論を通じてしか認識することができない。
人間にとって直接に扱うことができて、客観的に手に入れることができるのは現象というイメージだけなのだ。


生きた物体


純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)


カントの考えでは、我々が認識できるのはうわべの現象だけで、物そのもの、物自体は分らない。
物自体は経験の背後にありつつも、経験を成立させている。
物自体は認識できず、存在するにあたって我々の主観に依存しない。
因果律に従うこともない。
だが、物自体の世界が存在するといういかなる証拠もない。


しかし、カントは、そうした分らない不可知の物自体から、人間は感覚を受け取っているのだとも言う。
物自体からの刺激がなければ、私たちは認識の材料を得ることはできない。
だから、物自体は何だか分らないが、認識の原因であることになる。


澁澤龍彦がオドラデクのことを、矛盾しているが動物でもなく物体でもなく「生きた物体」と言いたがったのは、そういうわけである。
オドラデクの持つ気味の悪さ、それでいて人なつっこい感じは、私たちの傍にありつつ、私たちの経験できる現象の外側にある「物自体」の不可解さと似ていると、澁澤は言うのである。