- 作者: 片山智行
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1991/11/01
- メディア: 単行本
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魯迅の『野草』
魯迅の『野草』は散文詩集であると言っていい。
「このような戦士」が批判するのは、社会変革の前に立ちはだがる旧体制の様々な悪霊たちである。
彼らは「型どおりおじぎする」ことを武器とする。
彼ら「無物の陣」を構成するのは慈善家、学者、文士、青年であり、彼らは頭上に学問、道徳、論理、正義など美しい看板をかかげている。
「ただ自己あるのみ」と目覚めた戦士は、それら中国社会を暗黒にしている者たちと戦い続ける。
「だがかれは投げ槍を振りかざす」というフレーズのリフレーンが印象的である。
CCTVによるドキュメンタリー「先生魯迅」の冒頭
短編「影の告別」
「影の告別」は同じようなテーマを扱っているが、戦士のより内面的な世界に焦点を合わせている。
夢のなかで自己の分身である「影」が「おれ」に絶縁宣言をし、自分の「気に入らぬもの」が「未来の黄金世界」にあるならば、むしろ暗黒に沈むことを選ぶという。
「友よ」と影が呼びかけることから、同じ社会変革を目指す進歩勢力の仲間への決別のようにもとれる。
『魯迅「野草」全釈』(片山智行著)によれば、魯迅は「将来の黄金世界でも反逆者は死刑に処されるでしょうが、それでもみんなは黄金世界だと思っている、といったことが起こるのではないか」(『両地書・四』)と一九二五年に手紙で書いた。
後に共産主義社会で起きた粛清のことを考えれば、魯迅には先見の明があったといえる。
だが、おれは結局、明暗の境に彷徨う。
それが黄昏なのか黎明なのかわからないが。
おれはまずは灰色の手を挙げて、一杯の酒を飲み干すまねをしよう。
おれは時さえわからぬときに、ただひとり遠くへ行く。
ああ、ああ、もしも黄昏なら、黒夜がおれを沈めるだろう。
そうでなければ、おれは白日に消されるだろう、もしもいまが黎明ならば。
(「影の告別」片山智行訳)
「影の告別」が「このような戦士」より優れている理由は、それが暗示的な詩の言葉で書かれているからである。
「影の告別」は魯迅が生きた時代背景や具体的な対象を一旦括弧に入れても、読者に訴えてくる言葉遣い、言葉のリズム、言葉の力を持っている。