シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『野草』 魯迅 ②

johnfante2008-10-05

魯迅 (講談社文芸文庫)

魯迅 (講談社文芸文庫)


ならば黎明


この魯迅の現実世界から少し浮上したところで語るスタイルは、翻訳や研究のような魯迅文学の受容の歴史とは別のところで、日本語の現代詩人によって継承されている。
それが「もしも今が黎明ならば」という魯迅の「影の告別」を一節をエピグラフに引いた、正津勉の「ならば黎明」(詩集『ならば黎明』)という一篇の詩である。


何故?
深尾お前、何故
何故、俺、俺が? 俺は
鼻腔抑えてお前
違う、絶対!
俺はと
佇立し後退する、一歩
鉄、鉄がまたすぐ
頭上たかくふり
あげられまっすぐ
耳、耳が両ヘビーッと
血噴きすてた。 



魯迅正津勉


この「ならば黎明」という詩をおさめた詩集が書かれたのは一九七四年から七七年。
学園闘争が失速した後、過激派が相次いであさま山荘事件やを三菱重工爆破事件を起こした時代の産物としてこの詩を読めば、想像できることは三つある。
書き手が学園闘争の内ゲバの現場にいあわせた経験があるのか、フィクションだとしても学園闘争への反省や考察を深めようとして書いたのか、内的葛藤に自分なりの時代の形式を与えたのか。


「厚みのあるリアリティ」という正津勉論で小説家の小川国夫は、それら時代のリアリティを直接に反映した詩であるという読み方を退けて次のようにいう。
「ならば黎明」は時代と無関係ではないにしても、意図は言葉の自立の方にある。
詩においては意味や説明よりも重要なものがあり、それは詩人の言葉に読者を同化させる「言葉の感覚性」である。
「言葉が人を巻きこむ腕」に当るのがこの感覚性であり、「リアリティさえ正当に感受すれば、想像は開け、かくして全体的理解に進む」というのだ。


現代詩の試み


正津勉自身は「わたしはかの魯迅絶唱「影の告別」の畳句をあえて逆倒させて一集の表題としている。(…)魯迅の詩句が烈しくもしずかにわたしの胸を涵(ひた)していた」と「何たる惨事!」(『正津勉詩集』)という覚書のなかでいっている。
「もしもいまが黎明ならば」と魯迅が書いた詩句を、正津勉が「ならば黎明」とひっくり返してリフレーンしたことが重要な何かなのである。
魯迅の「黎明ならば」は日本語訳では助動詞の「だ」に助詞の「ば」がついた仮定形の「ならば」の用法であり、正津勉の「ならば黎明」は「それならば」の「それ」を省略した接続の用法で使用されている。



自作を朗読する正津勉


つまり、いま現在が「黄金世界」の黎明なのだとしたら「ただおれのみが暗黒に沈められる」という魯迅の実感を受けて、それを精神的にリレーする形で約五十年後に正津勉は次のようにいう。
そうなのだとしたら、自分たちの生きている時代のリアリティもまた一つの「黎明」にあり、詩に描かれる暴力的な「黄金世界」のなかでは、自分もまた暗黒に沈み、白日に消えることを選ぶだろうと詩人は宣言するのだ。
魯迅の「影の告別」から逆照射される「ならば黎明」という詩は、来るべき世界を現実の事件や行動ではなく、言葉の感覚性と想像力で切り開こうとする絶望的な現代詩の試みの一つなのである。



正津勉詩集 (現代詩文庫)

正津勉詩集 (現代詩文庫)