シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『アート ポリティクス』

johnfante2010-02-04

アートポリティクス (コロノス芸術叢書)

アートポリティクス (コロノス芸術叢書)


「われわれの世界はいまも危機的な状態にある。そうしたなかで芸術家も批評家も研究者もその大多数は現実を見つめることから撤退し、現実を解明しようとする活動を忌避している。彼ら・彼女たちが現実になんら応答することのない作品や批評を量産するようになってから久しい。そうした停滞状況は、二〇〇一年の9・11によって、一時、揺り動かされたかに見えたが、ふたたび芸術の世界は非反省的な蒙昧と停滞の時代に入りこんでしまった。しかし、芸術とは現実への応答ではなかったか」
そのように序文が書き出される「コロノス芸術叢書」が刊行された。遂にというべきか、演劇、写真、パフォーマンスなどの芸術の現場から、このような継続的な出版運動が開始されたことを心から歓迎したい。その契機となるのは、国際金融危機なのか、生活格差の広がる社会状況なのか、少数民族における差別の歴史なのか、グローバル化への抵抗なのか。多角的な論稿やレポートによって「現在」と「現場」を言語化しようと目論む一冊である。



天皇の裏にあるもの」と題された演出家・野田秀樹のインタビューは、インタビューというよりは、むしろ聞き手の鴻英良との対話といった方がいい。鴻は『TABOO』『パンドラの鐘』といった野田の偽史的な一連の舞台作品に通底する、批判的な日本文化論の視点を掘り起こしてみせる。そうすると、野田も敏感に反応し、80年代以降の日本における「かわいい文化」の蔓延に自分が一役買ったことを認め、日本社会の甘えの構造の中心に天皇制があるという持論を語っていく。
また、同じ演劇批評家の鴻英良による論考「身振りと抵抗の美学」では、グローバル金融資本の投機の集中砲火にあい、99年に財政破綻したアルゼンチンのブエノスアイレスで行われたアート・プロジェクトを紹介する。この『ピロクテーテス・プロジェクト』は、本物の人間にそっくりな人形を街中に配置し、そこで何が起こるのか、映像記録や展覧会やシンポジウムで検討するというものであった。
この現実に直接介入していくアート作品に関して、鴻英良はジェイムソンの『ブレヒトと方法』やベンヤミンブレヒト論を参照しながら、そもそも「ブレヒトにおける身振りの中断は、むしろ物語の中断として、その停止の中での状況の考察へと観客の関心を誘い込むという方法をもたらす」ものだったという。つまり、現代の芸術における演劇的身体の身振りや発話は、ブレヒトが考えていたイデオロギーや現状認識、それに「ある行動へと具体化していく企図」という本来的な意味を停滞させてしまっているのである。この示唆は、現代芸術を語るためのこの上ない参照項となっている、ベンヤミンの文章の内側から読み替えている点が論争的であり、現状に対する痛烈なカウンターともなっている。



もっとも重量感があるのが、演出家・キュレーターの豊島重之による論考「不審船 二歩と二風のサーガ」である。豊島は一時期、デリダ脱構築を徹底的に実践したパフォーマティヴな文章を発表することが多かったが、今回は「この文章を書き起こす必要が、私にはどうしてもあった」という熱をもって正攻法で書いている。
「世界は第三国である」という書き出しが、非常にイメージ喚起的である。マラッカ海峡の海賊、東シナ海の水軍、ウガンダカルト教団の「炎の箱舟」へと、論者の視点はさまざまな水上をたゆたい、ノマド的な潜勢力を寄せ集めながら、「日本」と呼ばれる群島の北端と南端におけるポスト植民地へと上陸する。そうはいっても、その視点は悪しきカルチュアル・スタディーズのように、無責任に文化表層をさらうのではなく、現実の国家や民族間における簒奪と蔑視の歴史と向き合う「地政学」的な視点を持っている。
豊島重之は09年に青森県立美術館で『小島一郎―北を撮る―展』にて、北海道開拓写真によるアイヌ女子の昆布採りのプロジェクション展示をした。豊島は小島一郎や義足の写真家・田本研三らを論じながら、津軽下北半島、北海道へといたる「辺土・最果て」の集合的記憶を呼び起こしていく。そこには無論、松浦武四郎ら冒険家や黒田清隆開拓使によって、「蝦夷地」が計量可能な「北海道」へと地理的に簒奪される歴史があり、明治政府の帝国的支配によるアイヌの政治的・文化的・宗教的な収奪の歴史がある。
それに対する抵抗の力を、豊島はアントナン・アルトー的な「舌語」や文様など、人々の深い記憶の底に眠る身体感覚に見い出しているようである。特に、アイヌ語の子音閉音節に海洋的な広がりを発見し、万葉集から源氏物語へといたる「天皇」を巡る国文学の助動詞にまでアイヌ語の音が食い込み、アイヌ語が「舌」によって包摂的に「ヒノモト」を食い尽くしていると見る一節は、すさまじい凝集力を見せている。


今こそ、私たちは政治を語るためにアートを使用するのではなく、アートを語りながら境界にひび割れをつくり、染み出る水力としてアートを現実の方へ向かわせなくてはならない時期に来ている、と実感される一冊である。