シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

〈孤絶 - 角〉をめぐる応答

johnfante2010-06-20

詩人の岸田将幸さんが昨年2009年10月に思潮社から刊行した、第4詩集『<弧絶-角>』が、第40回高見順賞を受賞した。
歌人岡井隆さんと同時受賞で、岸田さんは史上最年少受賞とのことである。
去る5月29日(土)に、茅場町のギャラリーマキにて、岸田将幸詩集『〈孤絶-角』高見順賞受賞記念イベント 「〈孤絶-角〉をめぐる応答─朗読・トークセッション」が行われた。
あれから少し時間が経ってしまったが、簡単なレポートにまとめておきたい。


《イベントの詳細は下記》
http://www.gallery-maki.com/2010/05/10/kishidamasayuki_kozetsu-kaku_talk/


朗読


イベントは茅場町にある、小さいながら親密な空気の流れるギャラリーで、オーディエンス20数名を前に行われた。
その多くが和歌、俳句、現代詩の書き手であったこともあり、特に業界内での関心の高さがうかがわれた。
岸田将幸さんの大学時代の後輩である、ライター/編集者の中里勇太さんの呼びかけで企画は実現した。「中里君の心根が嬉しい」と岸田さんが発言したのが、印象的だった。



イベントは中里さんが『<弧絶ー角>』という詩集へ対しての応答文として書いた、韻文的な作品の朗読から開始。
馬のひづめの音を通奏低音にし、身体全体をリズミカルに動かしながら、音楽的に朗読した。
中里さんは自身の韻文作品を「詩以前のもの」と読んでいるが、これは恐らく朗読という形で発表され、そこで調性されながら、詩作品になっていく未生の詩だと思われる。
詩を紙媒体へ発表するものと思いがちな制度への挑戦であリ、発話するものとして言葉を構成する、そのスタイルに瞠目すべきものを感じた。


それに対して『<弧絶ー角>』からの抜粋を読む岸田さんは、動に対する静といった風合いで、椅子に座したまま、しかし、声を振動としての音として自在に駆使しながら朗読。
その声の力は、ギャラリーに1台の高性能のスピーカーが現れたかのようで、声のバイブレーションで物理的にオーディエンスを震わせる凄みがあった。


トーク・セッション


私も参加したトークではさまざまな話題が出たが、基本的には1冊の詩集を離れない形で行われた。
まずは著者自身で装丁した、物理的な物としての本の美術性が話題になった。
私は<弧絶-角>ときいて、長細くて、重たい本を想像したが、実際に手にとってみると小さくて驚くほど軽い本であり、表紙に使っている厚紙も空洞のあるものだった。
背表紙がなく、縫い目が見えていて、プッラスチックのカバーに直接、著者名、イラスト、バーコードなどが印字されている、特徴的な装丁である。


それから、<弧絶-角>という詩集のタイトルを象徴するような黒いイラスト。
中里さんの指摘によれば、これは横にすると、四国かどこかの地図の海岸線のように見えるという。
「これはどこか特定の場所なのか?」という質問に対して、実は日本列島の海岸線を寄せ集めると、このような絵図になるのだ、と岸田さんが回答。
そこを斜めの横断線が横切り、カットし、弧絶する「角=コーナー」を作っているところに、込められた意味があるようだ。
私見によれば、これは詩集の後半に収録されている重要な作品「幼年期生地断片」と繋がっているのだと思う。


『<弧絶-角>』とは?


私がトークの前半で話したことは、大体こんな要旨だった。
優れた詩集を読むと「こんな詩の言葉があったのか」「こんな風に詩が書けるんだ」とその発見に驚くものだ。
そして、また『<弧絶-角>』は、詩を書くという行為についての散文詩になっている。
これは詩人の瀬尾育生さんが「存在記述」と呼ぶもので、人がまったく個別的で固有の存在を記述していくと、それは限りなく現代詩の言葉に近づくのである。



詩集の冒頭に、<弧絶-角>とは「edge of the solitude」という英語のフレーズの訳語だとある。
吉田文憲氏への献辞の後、6ページにカッコ()で覆われた散文がある。これが素晴らしい。<弧絶-角>というタイトルについて書かれており、詩集全体を象徴する文章になっている。
自分なりに読み解くと「詩を書く人」は弧絶したコーナーのような存在であり、互いに「怖ろしく離れている」。しかし、互いに隔絶し、絶壁があるからこそ、励まし合える「極限の人間関係である」。
弧絶したコーナーがあり、逆にそこから詩人たちの営みの総体のような地平が広がるヴィジョンが言われているのだと思う。
 

レポートを書こうと思ったが、何か小難しい「論」のようになってしまった。まだまだ言いたいことがあるので、この続きは、また別の機会に書こうと思う。
言うまでもないことが、言葉として書かれ、読まれる詩は、詩の書き手のためだけにあるのではない。谷川俊太郎さんのように、詩の言葉が、子供向けの童話や絵本の言葉に近づくことだってある。
私のような平凡な詩の読者がいてこそ、そこに交通が成り立つものだから、このような機会はもっと作っていきたいと思った。



大友さんがデザインしたフライヤー[PDF]
http://www.gallery-maki.com/wp-content/uploads/2010/05/KishidaMasayuki_kozetsu-kaku_TALK.pdf