シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『夢ばかり、眠りはない』

johnfante2010-06-24

2010年6月14日に、渋谷のアップリンク・ファクトリーで佐々木友輔の『夢ばかり、眠りはない』を見た。
はっきり言って、この映画は途轍もない傑作である。
もっと精確にいえば、大傑作の一歩手前という感じの映画であり、一歩手前であるからこそ無限の可能性を感じさせるのだ。



『夢ばかり、眠りはない』予告編


風景映画とフィルム日記


10年代に新しい映画が出てくるとしたら、この映画のように個人がビデオカメラを使い、それまでの映画的な技法、文学、社会批評などを混淆させたミクスチャー映画になるだろう。
『夢ばかり、眠りはない』の場合、足立正夫が永山則夫の足跡を風景、コメンタリー、フリージャズ音楽で撮った『略称連続射殺魔』の風景映画を意図的に模倣している。
さらに撮影方法は、ジョナス・メカスのフィルム日記に似ており、個人がビデオカメラを使い、茨城県の各地と秋葉原を往還しながら撮影する、といった趣向。
この両者を持ってきて見事に融和させたところに、並々ならぬ才能を感じる。


また、物語の構造も一筋縄ではいかない。
秋葉原の連続通り魔事件にショックを受けて、あれは自分だったかもしれないと思った映像作家の女の子が失踪し、彼女が撮影していた風景映像と日記が残される。
映画は、その日記を朗読する女性を登場させて、そのような体裁で映画を進行すると断る。
もちろん、これはモキュメンタリー的な手法であり、白石晃士の『オカルト』と題材も手法も少し似ているのだが、芸術的には『夢ばかり、眠りはない』の方が格が上であろう。


複雑な物語構造


彼女が日記のなかで「君」と呼ぶ、彼氏らしき人物の友人が、秋葉原の事件で死亡したということが失踪の契機となっている。
ひたらすら人物の顔を避けて、風景を撮ることに終始した映像に、古今東西のテクストからの引用をちりばめた彼女の日記の朗読がかぶせられる。
これは作り手の意図の通り、相当に冗長なものであり、客を選ぶところがあるのは否めない。
また、作り手自身が撮影した映像に、日記や手紙の文章を女性の声でかぶせていると、すぐに見え透いてしまう。
しかし、それでいて時折、日記映画に特徴的な風景の一瞬のきらめきのようなものが記録されている。


映画が2009年12月31日で終えられるところも、失踪した彼女(佐々木累)が男性(佐々木友輔・作リ手自身)に転移したと仄めかしがあって終るところも芸が細かい。
いわば、実際の作り手と物語のなかの登場人物が、メヴィウスの輪のように一回りして終わり、また永遠に続いていくかのような余韻を残している。
いやはや、それにしてもハンディなビデオカメラを武器に、実験映像、ドキュメンタリー、複雑な物語構造を駆使した、ジャンルに区分けすることが不可能なまったく新しい映画が登場した。
おそらく、呼びたい人は『夢ばかり、眠りはない』を「10年代」とか「テン年代」と呼ぶことだろう。とにかく、このような「風景映画」の現代的な更新に心が震わされたのだ。



あらすじ


2008年の6月8日、東京・秋葉原歩行者天国に2トントラックが突入し、道行く人々を次々とはねた。トラックを乗り捨てた容疑者Kは、ダガーナイフを用いてさらに周囲の人を襲い、最終的に死者7名、重軽傷者10名という惨事をもたらした。
事件後は、容疑者が犯行前に残した携帯サイトへの書き込みが発見されたこともあり、犯行動機を巡って報道は過熱。派遣労働の問題や家族との不和など様々な説が飛び交った。
また、2ちゃんねるなどを中心に、ネット上で容疑者を神と賞賛する書き込みやいたずらの犯行予告が書かれて逮捕者が出たことも大きな問題となった。


2010年1月、ある若い女性映像作家が忽然と姿を消した。
遺書は無かったが、その代わりに彼女は、2008年4月から始まる日記や手紙、ビデオカメラで撮影した日々の記録、そしていくつかの映像作品を部屋に残していた。
「2009年6月3日。昨日、君の夢を見たよ。」彼女の生きた記憶が映画として再生されていく。そこには、秋葉原無差別連続殺傷事件を機に壊れていくひとりの人間の姿があった。


(映画HPから引用)