シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

死者の書 ②

johnfante2008-03-25

死者の書・身毒丸 (中公文庫)

死者の書・身毒丸 (中公文庫)


小説『死者の書


民俗学者折口信夫の歌や戯曲、小説などの創作は「釈迢空」の名義で書かれている。
その中で最も有名な作品が『死者の書』である。
折口は「山越しの阿弥陀像の画因」という文章のなかで、それを書いた動機として「こぐらがったような夢をある朝見た。これが書いてみたかった」と言う。


弟子の加藤守雄は『釈迢空折口信夫研究』のなかで、折口本人から聞いた伝聞として「中学時代の昔の友人が、夢の中に現れて、迢空に対する恋を打ち明けた」と言っている。
その「能役者のように端正な顔の友人」である辰馬桂二のことは、そのときまで三十年以上意識していなかったので不思議でならず、絵解きをして、小説のなかで謎を明かそうしてと書いたのが『死者の書』だというのだ。


定説を覆す


長年、この加藤守雄の説が受け入れられきたが、それを二一世紀になって覆したのが詩人で作家の富岡多恵子の『釈迢空ノート』である。
富岡は同じ「山越しの阿弥陀像の画因」から引用しながら反駁をくわえる。
「そうする事が亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養になるという様な気がしていた」という一文である。


ここには「かの昔の人」(辰馬桂二)の夢を見させた「古い故人」という第二の人物が登場している。
辰馬桂二に対する憧れは「大罪を秘匿するための微罪の告白」に過ぎず、折口のような人が真実の恋に関することを弟子に軽々と話すことはおかしい、と富岡は指摘する。
ふだん弟子たちを「女性」として愛した折口が、「夢の中の自分が中将姫になって」女性となっていたから、「こぐらかつた」気持ちになったのだろうというのだ。


供養の書


供養するために、わざわざ『死者の書』という小説まで書かなくてならなかった相手とは、折口の自選年譜にある仏教家の藤無染(ふじむぜん)という、九歳年長だった「年上の男」だと富岡は喝破する。
折口は十八歳のときに藤無染と麹町で同居生活を送っている。
また、その翌年の明治三九年に藤無染が結婚して別れたときを境に、それ以前は恋の喜びを歌った歌が多く、それ以降は痛切な失恋による恨みの歌を数多く詠んでいる。


折口の自伝的小説に「口ぶえ」という作品があるが、これは『死者の書』と共通点を持っている。
大阪の家から旅に出て、神主だった祖父が住んでいた奈良の山々を一人さすらうくだりは、郎女が「山ごもり」「野遊び」の風習にならった山歩きを思い起こさせる。
何よりも夏の休暇中に山寺に籠もる年上の友人を訪ね、山の頂で愛を誓い合い、手と手をきつく握りあって心中するラストシーンが、藤無染という人の風貌と重なる。
しかし、実際の藤無染は折口と別れた四年後に三一歳の若さで病死してしまった。



迢空・折口信夫事典