シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

死者の書 ③

johnfante2008-03-29

釋迢空ノート

釋迢空ノート


供養の書


死者の書』を供養のための小説として読むとどうなるか。
十三章。
春分の日二上山の間に俤人を見て山を歩いた藤原南家郎女は、飛鳥の寺の結界を破ったために、小さな寺の庵室で物忌みをしている。
そこへ耳面刀自への執心が残る死者の滋賀津彦が、幽界から美しい郎女のことが耳面刀自に見えるらしく、二上山の骸からさまよい出てくる。


「つた つた つた」という足音がして、帷帳に「白い骨、譬へば白玉の並んだ骨の指」が絡む。
「なも 阿弥陀ほとけ」という経文が郎女の唇から漏れる。
古墳から蘇り、外来仏教が入ってくる以前の生者と死者が密接に関わっていた時代を生きた滋賀津彦の魂を、郎女は意識的にか無意識的にか、生と死をより明確に分かつ思想としての仏教の言葉で鎮めようととする。


夢の海の中道


それに続く夢のシーンのなかで海の中道を郎女が歩いていくところが、この小説のなかで最も美しい箇所だろう。
白玉のつながった死者の骨のイメージが詩的に処理されて、打ち寄せる波しぶきの白い玉のイメージに引き継がれる。
その後、郎女は滋賀津彦の骸を覆うために機を織り、それから作る衣には曼荼羅が描かれることになる。
郎女の夢のなかで語部が尼として現れることからも分かるように、語部という存在が効力を失いかけている時代のことだ。
神話的な世界と仏教的な世界観が拮抗する時代背景において、郎女は古代の呪術的な力でよみがえった死者を外来仏教の力で供養しようとするのだ。


恋人との死別


若き折口信夫は恋人だった藤無染と別れた後、さらに藤の病死によって永遠の別れまでも経験した。
この離別による恋しさと怨みのこんがらがった感情が、折口の夢の中に立ち現れて、三十年後に小説を書くことによって解明しなくてはならないと思わせた。
死者の書』の第二章を読むと読者は混乱しやすいが、滋賀津彦の目を覚ましたのは九人の修道者たちであるというよりは、むしろ俤びとを求めて山ごもりをした郎女の力であったというべきではないか。


富岡は「釈迢空」という法名(出家者の名)を折口につけたのは、おそらく藤無染であると推測している。
折口信夫は創作するときは生涯をかけてずっとこの釈迢空という名を使い続けた。この名には、それだけの意味が込められていたのだ。
死者の書』は折口信夫という一人の人が、実人生で深く関わった人間の魂を鎮め、供養するために書かれたという切実な一面を持っている。
文学という営みにおいては、「私事」を物を書くことによって解明したり、克服したりする場合があってもいい。
この本が過剰なまでの詩的イメージと美しさに彩られているのは、そんな理由からかもしれない。



折口信夫伝―その思想と学問