シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

死者の書 ①

johnfante2008-03-21

死者の書 [DVD]

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折口信夫の小説「死者の書」を原作に、川本喜八郎が製作した人形アニメーション映画。


死者の書」への批判


文芸評論家の本多秋五は、短文「『死者の書』メモ」のなかで、「死者の書」がいかに歴史小説として破綻しているかを指摘している。以下、箇条書きで示してみよう。


大津皇子と中将姫の話が内容として二つに割れており、当麻の語部の姥が二者を仲介するが、それは論文ならともかく小説としてはつながらない。
・夢の部分と客観描写が混在して、読者を困惑させる。
・歴史的には中将姫が当麻寺に入ったのは天平宝字六年か七年のことだが、小説では姫の父の藤原豊成大宰府に送られたのが「さきをゝとし」となっているので、作者は天平宝字四年を念頭に置いているようだ。この年には大伴家持はすでに因幡守に飛ばれており都にいるはずがない(八章)。またこの頃、藤原仲麻呂は大師になっておらず、仲麻呂と家持の会見もあり得ない(九章)。
・三月一四日の春分の日に奈良に行ってみたが、太陽は生駒山の北に沈んだ。二上山のへこみに太陽が没することは不可能であろう。


本多秋五の指摘にはもっともなところもあるが、むしろその反対に、「死者の書」の歴史小説や近代小説の定石や約束事からはみ出しているところが、とても魅力だと思われる。



映画「死者の書」の予告編


語りの構造


六章の主語の移り変わりと語りの構造に注目してみたい。


最初は主語なしの客観描写で、「門を入る松風」と共に寺の様子が描写される。
作者の視点は空から見下ろすような鳥瞰的な視野、あるいは遠望を確保するような遠目の視点から徐々に近づいてきて、揺れ動きながら少しずつ中将姫に寄り添っていく。
主語がない状態から「旅の若い女性」「旅の女子」「その女性」という具合に近づいていき、呼称が「此郎女」「旅の郎女」「姫」と変っていくと、作者は主人公に乗り移るかのようにほぼ同化する。


六章の後半で、中将姫は大陸から来た経文を写経するうちに心が立ち騒いでくる。
大津皇子が登場する一章と五章で、客観描写と内なる声が一段下げによって区別されていたのに対し、この部分では外部の描写と姫の心の声が語りのなかに混在している。


作者の位置


作者の折口信夫は明らかに大津皇子よりも、中将姫に寄り添って書いているように見える。どうしてなのか。「山越しの阿弥陀像の画因」には、「死者の書」を書いたときの動機が語られている。
「こぐらがったような夢をある朝見た。これが書いてみたかった。書いている中に、夢の中の自分の身が、いつか中将姫の上になっていたのであった」
折口の弟子の池田弥三郎によると、その夢は「男の友人から求愛された夢だった」という。このことは「死者の書」の小説のなかの、墨汁のしたたる筆で写経をする内にエロティックともいえる恍惚状態となり、神の嫁と化していく中将姫の姿にも重なってくる。


死者の書」は折口の夢を契機として書きはじめられた。
物語は、大津皇子や天和日子の神話や中将姫伝説をベースにしている。さらにそこには、春分の日秋分の日になると古代の女性たちが沈む日を追ったという「山ごもり」「野遊び」の慣習がモチーフとして重ねられている。
この小説は「山越しの阿弥陀像」を描いた古代人の心象をつかむ折口信夫の直観力をバックボーンにして、神話的で、詩的なイメージを丹念に折り重ねていくことで、複雑な文学的空間を形成している。
詩人として、男色家として中将姫の内側に憑依できる折口だったからこそ、このような歴史小説や近代小説を大いにはみ出る呪術的で、詩的な散文が書けたのかもしれない。



死者の書 (お風呂で読む文庫 47)