シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『河童芋銭』

johnfante2008-12-19

河童芋銭----小説小川芋銭

河童芋銭----小説小川芋銭


右写真は小川芋銭が描いた河童の図。

評伝小説とは?


詩人・正津勉の小説『河童芋銭』が刊行された。日本画家・小川芋銭の生涯を描く初めての評伝小説だという。
「評伝小説」とは、いったい何なのだろうか? 
2007年に発表した前作『小説 尾形亀之助』を、正津は「亀之助さん」という短い詩で結んでいた。
「亀さんあんたは死んだんだね」というフレーズではじまるこの詩。
いわゆる評伝や人物伝が三人称で人生を再構成する「伝記」なのだとしたら、本書は「あんたは」と呼びかけつつ、その人物の人生に寄り添い、丁寧になぞっていく「小説」に他ならないのだろう。



小川芋銭という日本画家は、明治元年に生まれ、昭和13年に亡くなっている。
牛久藩藩士で後に帰農した小川家に生まれるが、廃藩置県で家は没落し、幼少の頃は持病の瘧と丁稚奉公などで苦労した。
新聞社に入り、漫画で頭角をあらわしたが、父親の命で牛久に戻り、農業に従事しながら画業を続けた。
幸徳秋水主催の「平民新聞」の漫画で人気を集め、40歳のとき初の画集『草汁漫画』を刊行。
「好きな芋を食う銭、それくらい稼ぎがあったら」ということで「芋銭」を名乗ったことからわかるように、飄逸な作風と題材で知られ、漫画や日本画で独自の世界を描き続けた。


『河童芋銭』の妙味


正津の評伝小説の方法は『河童芋銭』になって、妙味を増している。
たとえば東京から牛久へ戻った幼年期の小川芋銭が、牛久の沼を夢に見る場景。
「雲霧のたちこめる沼畔……。それはいったい何なのだろう、総身に細毛あるところ、猿とみえるが猿ではない、背中に甲羅があるところ、亀とみると亀ではない、猿でもなく亀でもなく、奇妙な妖怪のようなもの。それがそこらを戯れまわりやまない。泡粒がぶくぶくする水面……」



これは芋銭が画境をきわめていくうちに、ライフワークとなっていった河童との出会いのシーンである。
このような光景を芋銭が見たのかどうかは誰にも確証はできない。だが、正津は芋銭の内側に入りこみ、想像力でこのようなヴィジョンを獲得している。
つまり、正津の評伝小説の方法とは、あるときは強く共感し、あるときは芋銭への疑問をつぶやき、くっついたり離れたりしながら、対象との間にコミュニケーションを開いていく方法なのである。


俳味と近代日本


正津が芋銭の小説を「書ける」と思ったのは、おそらく彼の俳句を読んでからのことであろう。
芋銭の俳句「喰ふて描き描きて死す是我宗教なり」や、磐梯山噴火の際に読んだ警句「地上の人類と云ふものは、安心ならぬ土床の上に安心らしい尻をおろし、それですましているものだと思ふ」など。
かねてより正津が愛好している金子光晴山之口獏といった詩人の俳味と似たものがある。
実際に、『河童芋銭』の多くのページが芋銭の句の鑑賞にさかれている。


そして、もうひとつの特徴は、本書が芋銭の評伝という形を借りながら、正津による「近代日本論」になっていることだ。
そのためには、小川芋銭という明治元年に生まれの画家は、ぴったりの存在だったのだろう。
芋銭は、日本が近代国家になって初めての大災害「磐梯山の大噴火」を経験し、大逆事件関東大震災日中戦争まで、近代日本の主だった事件にことごとく遭遇している。
正津は芋銭の目を通して、近代日本の姿を「小説の背景」として捉えようとしたのではないか。



小川芋銭が過ごした「雲魚亭」


芋銭はそのような生涯を送りながらも、茨城の牛久沼の沼畔で農画工として暮らし、近代日本社会から距離をおくオルタナティヴな存在だった。
本書の前半分は芋銭の50歳までの生涯にあてられ、後半部分では晩年の20年間をじっくりと読ませる構成になっている。
自然のなかで「田舎の幻想世界を追求した」仙境の画人・芋銭に、正津は尽きせぬ共感を寄せるとともに、これから自身が進むべき境地をも見ているのかもしれない。