シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

近松秋江 ②

johnfante2009-01-22

近松秋江+岩野泡鳴+正宗白鳥 (明治の文学)

近松秋江+岩野泡鳴+正宗白鳥 (明治の文学)

『雪の日』


『雪の日』の雪岡という男は、スマと4年間一緒に暮らしていても、まだスマの元亭主やその初恋の相手にまで嫉妬してしまう。先夫の幻影が彼を苦しめる。
雪岡の『フム、そんなことがあったのか』というセリフがくり返し、効果的に使われているが、このフムは段々と焦燥感のあるものに変わっていく。
雪岡は「呼吸が詰まるよう」になり、小説の最後で大きな欠伸をするまで、心中が波立ったままである。


雪岡がスマの過去を追究するのは、自分の恋愛を生かし続けるためである。
だから、スマに「もう一遍あなたの泣くのが見たい」といわれても、懐かしそうにしているのだ。
つまり、雪岡は世の常識に反し、恋路さえあれば「世界がどうなっても構わない」のであり、情念が奔流し、魂の溶けるような恋にあってこそ、真に生き生きとしていられるのである。


人間の標本



愚かな男の恋路における醜態が、どうしてこうもおもしろく美しいのか。
秋江は『雪の日』の雪岡に、恋愛によって体がやせるほど悲しみもだえたのに、それを小説家として自分の恥部を暴露して飯を食うことなどできない、と嘆かせている。
そういいながら、秋江がちゃんと小説にしているところが恥知らずであるし、なかなか商魂たくましい。
雪岡がスマの全人生を知りたいと思うのは、妄執というだけでなく、本当のところを知りたいという妙な情熱もある。
そして、書き手としての秋江は、自分のみっともなさを包み隠さずに書き、自身を「人間の標本として店ざらし」にする。


恋愛と精神錯乱


「別れた妻もの」の『疑惑』で、失踪した妻を追って日光の温泉宿の宿帳を一軒一軒調べていくくだりなど、秋江は恋愛による精神の錯乱状態を錯乱そのものとして描き、それでいて独特のユーモアを醸しだした。
秋江は実生活では甘ったれの無能者であったが、その小説の世界では、女々しいまでの女性性と本能の喜びをうたっている。
私たちが男女を問わず、秋江のなかに自己の一部分を見てしまうのは、そんなところに理由があるのだろう。



なんでも秋江は生涯をかけて、尊敬する近松門左衛門が書いたひとりの女性のようなミューズを求めていたという。
そのために様々な恋愛と女性遍歴を重ねることになった。晩年には女性ではなく、自分の子供に執着して、それを小説にも書いている。
ともあれ、人間の感情には良いも悪いもなく、強い感情だけが人間を活性化させるのだから、それそれはそれでいいのである。