シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

近松秋江 ①

johnfante2009-01-16

黒髪・別れたる妻に送る手紙 (講談社文芸文庫)

黒髪・別れたる妻に送る手紙 (講談社文芸文庫)


情痴小説家


小説家・近松秋江の『雪の日』をプロローグとする、「別れた妻もの」の連作は情痴小説や痴愚小説の草分けとされることが多いが、私にとっては究極の恋愛小説に他ならない。
恋愛の情熱がもっとも盛り上がるのは、相手に一方的に惚れこんでいるときであろう。
片恋し、あれこれと余計な想像を思いめぐらせ、恋焦がれて執着し、相手を追いかけている状態である。
他人の恋愛というものは、それが当人にとって真剣であればあるほど、傍から見ていると滑稽に見えてユーモラスなものだ。
近松秋江の小説も、そんなふうに大笑いしながら読めばいいのだと思う。


1901年に坪内逍遥の指導のもとに、神楽坂周辺で若い文学者や文学青年が集まり会合を持っていた。
その会場となった牛込赤城神社裏の清風邸という貸席で、秋江は女中の大貫ますという女性と知り合い、同棲をはじめた。
しかし、秋江は出版社勤務や記者などのめぐまれた就職を、次々にみずからフイにし、ますに小間物屋や素人下宿を営ませるなど苦労をさせた。
そのせいで、ますはつき合ってから6年後に、下宿人の岡田という男と逃げてしまう。


『雪の日』


秋江が『雪の日』という小説を書いたのは、ますに逃げられた半年後のことだ。
そんな時期に、女房とむつまじそうに語り合いながら、過去の恋愛経験をさぐっていく一幕ものの会話劇を書いている。
作中の雪岡とスマの会話は、『』(二重かぎかっこ)、つまり語り手の意識か記憶のなかにすっぽり入っている。
だから、『雪の日』は私小説の体裁をとっているのはいえ、現実に起こったできごとや会話を扱っているとは限らない。
むしろ、半年前のことを省みながら、作者のいいように再構成している「幻想のなかでの会話」といった趣がある。



半年後になって、他人に寝取られ、逃げられた女房のことを書けるようになったのは、新しい相手ができたからだったという。
『別れたる妻に送る手紙』で「お宮」として登場する、水天宮裏の蠣殻町の遊女のことである。
だからといって、秋江が移り気で浮気性なのではなく、よくいえば彼は常に恋愛状態にないと生きていけないのだ。
時間が経過して冷静になり、別れた妻とのことを対象化できるようになったからではなく、次の執着する相手ができるようになったからこそ、過去を振り返る余裕ができたというところが、いかにも秋江らしいといえるか。


(つづく)