シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

死者たち ③

johnfante2008-10-31

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

歌と音楽性


ジョイスの処女作『室内楽』は詩集であった。ジョイスの「死者たち」の発想の源にも一つの詩歌集があり、他にもアイルランドの歌や音楽が効果的に使われている。
ゲイブリエル・コンロイがスピーチでロバート・ブラウニングの詩の引用では聴衆に難しいと考え、シェイクスピアかトマス・ムーアの『アイルランド歌謡集』にするか迷うくだりがある。
ジョイスは「死者たち」を書くために、弟に『アイルランド歌謡集』の歌の一つ「おお、汝、死せる者たち」の歌詞をトリエステに送ってもらっている。


そうです、わたしたちは冷たく青白い影。
地上で愛した美女も勇者も死にました。
けれども、たとえこうして死んでいても、
若い日に戯れた野原や花畑の
生の吐息は香しく、  
運命の命ずるままに
ヘクラの雪の中で凍りつく前に
しばしその香を味わい、もう一度生きていると思いたい!


生者と死者の対話であるこの歌の第二節で、死者が生者に答えて、もはやない肉体を求めて嘆き悲しんでいるところにジョイスは注目した。
これが妻ノーラの死んだ恋人に対する自分の嫉妬と逆さに対応しているように思えたのだ。
この歌が小説全体の通奏低音となり、だからこそジョイスはムーアの『アイルランド歌謡集』に「死者たち」の小説のなかで言及しているのだ。


音楽の効用


また、「死者たち」において歌は場面転換や空気を変えるためにも使われる。
ゲイブリエルのスピーチがパーティに来なくなった死者たちについて触れて、湿っぽくなったところで場の雰囲気を一転するために乾杯と「みんなは陽気で楽しい仲間」が歌われる。


みんなは陽気で楽しい仲間
みんなは陽気で楽しい仲間
みんなは陽気で楽しい仲間
それは誰も否定はできない 
嘘をいうのでなければね 
嘘をいうのでなければね


もっと重要なのが、「オーグリムの乙女」(the lass of Aughrim)というアイルランドの民謡である。
ジョイスはこれを妻のノーラから教わった。
村娘が領主のグレゴリー卿との間に生まれた赤子を抱いて城を訪れると、卿の母親が城に入ることを許されず追い返される。
そして、娘は嘆き悲しむ。
これを聞いたグレゴリー卿は娘の後を追うが、乙女は失意のまま、赤子を抱いて海に身を投じてしまう、という内容である。


If you'll be the lass of Aughrim 
As I am taking you mean to be   
Tell me the first token      
That passed between you and me  

もしあなたがオーグリムの乙女ならば
私の目に狂いがないのなら
覚えているだろうか あなたと交わした
初めての愛のしるし



映画『ザ・デッド』において「オーグリムの乙女」が歌われるシーン

  
あなたは今も覚えているだろうか
あの丘の上で過ごした夜のことを 
あなたと二人きりでひと時を過ごした
いま思えば 悲しい運命のひと時を 


冷たい雨は降りそそぐ 重くぬれた私の髪に
冷たい露は 私の肌を濡らす
幼な子は私の腕のなかで冷たく横たわっている
グレゴリー卿は門を閉ざして入れてはくれぬ


ジョイスが「死者たち」で引用したのは、最後の連の一部分である。
すべての詞を読めば、どうしてグレタ・コンロイが昔の恋人のこと思い出したかは明白である。
しかし、ジョイスは民謡の一部分だけを暗示的に引くことにした。
おそらく、アイルランドの人であれば、その部分を読んだだけで分かると考えたのか、あるいは、核心にあたる部分を書かないことで読み手に想像の余地を与える効果をもたらそうとしたのだろう。


音楽的な散文


また、「死者たち」の最終場面は『ダブリン市民』全体をまとめあげる美しい詩的な散文となっており、言語上の音の効果にも注意が払われている。


His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the descent of their last end, upon all the living and the dead.


The dead は定冠詞をつけると複数扱いになり、死人や死者の意味になる。
不定冠詞をつけるとa dead man やa dead personとなって単数扱いになる。
「言葉の芸術家ジェイムズ・ジョイス」によれば、単語の頭で韻を踏む「s」や「f」の多用、単語の音の類似(soul, slowly, snow)、交差対句法(falling faintyly → faintly falling)などに特徴があり、語のもつ美しい効果音がリズミカルに響いてくる。


言葉の芸術家ジェイムズ・ジョイス―『ダブリンの人びと』研究


また、パーティの後の別れの場面では見送る三人(ジューリア叔母、ケイト叔母、メアリ・ジェーン)と、見送られる四人(ゲイブリエル、グレタ、バーテル・ダーシー=テノール歌手、ミス・オキャラハン)がグッドナイトを言い合う場面では、直接話法にして誰が言っているかを省略することでリズムを出している。
このgoodnightという言葉には、ジューリア叔母との今生の別れとその死のイメージが内在されているようだ。