シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

「山桜」 石川淳

johnfante2009-07-15

無頼派幻想小説


戦後、太宰治織田作之助らと共に、石川淳無頼派と呼ばれていた。
しかし、同時に石川淳は幻想的な文学においても一人者として認められている。


「山桜」の主人公は、一本の山桜のせいで武蔵野の野原に寝転ぶことになる。
親戚の判事に金を借りた後、さらに金策をするために吉波の家へ出かけたのだが、帰りの電車賃もない状態。
それでも主人公は、昼夜なく怪しい熱に浮かされて、外へと出かけてしまうのだ。
野原で小学生の善太郎という少年に会ってから、吉波の家へ行くあたりから、小説は白昼夢の世界へ、幻想の世界へと入っていく。
山桜がゆらゆらと揺れ、写真の亡霊に取りつかれて花びら以外が見えなくなってしまう、という描写が素晴らしい。


夢の技術


現実と夢の転換点はどの辺りだろうか。
「わたしは頼みの略図を忘れて、ついまぼろしに釣られつつ、物見遊山に来たやうな浮かれごこちになり宛もなくふはふはここまで迷い込んだ」とある。
ふはふはという擬態語もいい。
自分のいる場所を位置づける「略図」を忘れて、「まぼろし」に釣られるこの一文から、白昼夢の世界へ入っていっているのだろう。
息の長い文体で、子供とのやりとりが朧になりながら「靴の裏側」という瑣末な事柄が気になるところも、いかにも夢の世界のようである。


主人公がたどり着く吉波家は、エドガー・アラン・ポーへの言及もあるが、さながら幽霊屋敷のようである。
二つの眼がランランと光り、廃物が置かれていて、京子という女性が善作に鞭打たれている。
この夫婦の子供である善太郎少年が実は「わたし」の子ではないか、と思うところが味噌である。


処女作の「佳人」で、石川淳は物質の世界より上位の「精神の運動」を書くと言っていた。
「わたしの樽のなかには此世の醜悪に満ちた毒々しいはなしがだぶだぶしている。(…)わたしの努力はこの醜悪を奇異にまで高めることだ」と。
だぶだぶという語の響きもおもしろい。
親しかった京子という女性の嫁ぎ先へ金を借りに行き、彼女が不義の子の疑惑によって亭主にいじめられることが「此世の醜悪」であれば、石川淳はその現実を幻想的な夢の技術で文学にまで高めたのであろう。