シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

「哀しき父」 葛西善蔵 ①

johnfante2009-08-04

太宰と葛西


太宰治に「善蔵を思う」という短編小説がある。
太宰が『津軽』という小説で、葛西善蔵は「津軽出身の小説の名手」だと書いているように、葛西は同郷の先輩であると同時に文学上の先達でもあった。
この「善蔵を思う」では、直接葛西について触れている部分はないが、太宰は自身と故郷の津軽との関係でおもしろい指摘をしている。


「私は故郷に甘えている。故郷の雰囲気に触れると、まるで身体が、だるくなり、我儘が出てしまって、殆ど自制を失うのである。自分でも、おやおやと思うほど駄目になって、意志のブレーキが溶けて消えてしまうのである」


これは太宰だけではなく、津軽出身の作家に共通なところがあるのではないか。
たとえば、葛西善蔵の処女作「哀しき父」を読んでいても、どうしてこうも我ままが許されるのかと思うことがある。


哀しき父


主人公の「彼」は遠い故郷に四歳になる息子と妻を預けて、東京でひとり作家になるための修行をしている。
母親からは手紙で子どもの洋服を送るようにと催促がある。
鎌田慧の「椎の若葉に光あれ」という評伝によれば、この頃の葛西善蔵は妻の実家から月に二十円から二十五円の仕送りを受けていた。
鎌田は現代いえば、二十万から三十万くらいと推測している。
「善蔵を思う」の末尾で太宰治は「哀しみは金を出しても買え」と書いたが、この言葉は葛西善蔵の創作姿勢をよく表していると思う。



ところで「哀しき父」で真っ先に目につくのは、意外にもオノマトペ擬声語)である。
靄がもやもや、自動車がガタガタなどはいいが、雀がヂュクヂュクと啼きくさり、金魚がしなしなと泳いでいるところなどは、この作家に特有の言語感覚がここに現れているようだ。
主人公の「彼」のことを作家とは呼ばずに「冷たい暗い詩人」としているのも、その辺と関係あるのだろうか。
あるいは、日常生活や世俗的なものを切り捨て、求道的に身を削るようにして作を物すことを目指した葛西だから、雀は忌むべきものだったのか。



太宰治「善蔵を思う」は下記でも読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2278_20022.html