シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

月のひつじ ④

johnfante2009-10-11


奇跡的な映像


強風がアンテナをあおり、きしむような音がするたびに、パークス天文台の制御室にいる技師たちは天井を見上げた。
1000トンの皿がうめき声を上げているかのようだった。一方、月面にいるアームストロング船長らは、今まさにイーグルを出て行こうとしていた。
午後12時50分。ようやく月はパークス天文台電波望遠鏡の水平線(視野)に入りつつあった。その日、パークスの望遠鏡は2つの強力なレシーバーを設置していた。
「電波をキャッチしました」タフィーはいった。
「よし、受信開始!」ジョンはいった。
 

12時54分。パークス天文台でTV映像の受信がはじまったちょうどそのとき、月面では月着陸船のTVカメラのスイッチが宇宙飛行士のオルドリンによって入れられた。
制御室のジョン・ボルトンたちの目の前のモニターに、まさに梯子を降りかけている途中のアームストロング船長の姿が映し出された。
この映像をいままさに受信しているのは、パークスの「皿」だった。



月のひつじ』予告編


アームストロングの胸の部分には、遠隔制御ユニットが取り付けられていたため、彼は自分の足を見ることができなかった。
9段の梯子を降りる際にアームストロングはリングを引いて、イーグルの側面に畳まれていた格納アセンブリ (MESA) を展開し、テレビカメラを作動させた。
最初の画像の送信には、低速度走査(slow-scan)テレビジョンシステムが用いられていた。
TVカメラは白黒で、毎秒10フレームのナローバンドのものだった。カメラには広角とクローズアップの2つのレンズがつけられていた。
12時56分(カリフォルニアでは2時56分)。アームストロング船長は月面で人類で初めての一歩を踏んだ。
新たなる時代の幕開けを告げる輝かしい瞬間だった。


月面歩行の中継


このとき、3つの中継所が月からのシグナルを受信していた。
パークス天文台電波望遠鏡と、キャンベラ郊外にあるハニーサックル・クリーク中継所と、カリフォルニアにあるNASAのゴールドストーン基地であった。
 シグナルは中継されてヒューストンの管制センターに届いていた。
テレビ放送の最初の数分間、NASAはより良い映像を探してハニーサックル・クリーク天文台とゴールドストーン天文台の間を行ったり来たりしていた。
しかし、ゴールドストーンはテレビ電波の受信に関して障害を抱えており、ハニーサックル・クリークは低シグナルの受信だったので、両方とも画像が良くなかった。
そして、NASAの担当者がパークスからの映像に切り替えたとき、それが最高品質のものだと判明した。
そこでNASAは、それから2時間半(月面作業の時間)のテレビ放映の残りに、パークスが受信した映像を使ったのである。



受信開始から9分後、望遠鏡のメインの探知機の視野まであがってきた。
パークス天文台の望遠鏡は巨大なので、風に弱いという弱点はあるが、より多くのシグナルをとらえて、より品質の高い映像をキャッチすることができた。
しかし、パークスの天候はそれから数時間良くならなかった。
月面歩行のあいだはずっと、望遠鏡はセイフティ・リミットを越えたところで運行されていた。ジョン・ボルトンたち所員は命の危険性のあるなかで、全世界にむけて中継を続けた。


パークス天文台のシグナルはシドニーに送られて、そこでTVシグナルは分けられた。月面で撮影された映像は、世界中に放映するために民放のテレビ基準に変換される必要があった。
アメリカは30フレームのNTSCへ、オーストラリアでは25フレームのCCIRへといった具合に。
一つはABC局(Australian Broadcasting Commission)のスタジオへ、オーストラリア国内のテレビ放送網のために割り振られた。
もう一つは世界中のテレビ網のために、ヒューストンの管制センターへとつながっていた。
ヒューストンでは、宇宙飛行士に何らかの事故が起きたときのために、NASAによって6秒遅れで放送されていた。
さらに、太平洋上を飛んでいるINTELSATの通信衛星から全世界へ配信される誤差を計算に入れると、オーストラリアの人たちはパークス天文台の人たちのおかげで、全世界よりも6.3秒ほど早く、アームストロング船長の月への最初の一歩や月面歩行を目撃したことになる。


 

その後のパークス天文台


その後、パークス天文台はアポロ12号、14号、15号、17号のミッションに協力した。
ジョン・ボルトンによれば、アポロ13号と16号のときは緊急事態が発生したために参加を取りやめる決意をしたという。
しかし、1970年4月。そのアポロ13号に事故がおきた。打ち上げから約55時間後に月へ向かう途中に、司令船の酸素タンクが爆発したのだ。
水、電気、生命維持装置に被害はおよび、3人の宇宙飛行士は生命の危機にさらされた。が、最後には無事に地球に生還した。その陰にもパークス天文台の活躍があった。



パークス天文台は、アポロ13号では公式のサポート基地に入っていなかった。
「私たちは悲壮なシグナルを受けるや、すぐに行動を起こしました。公式の依頼を待つ必要はありませんでした」ジョン・ボルトンはいう。 
 ボルトンとスタッフはもう動いていた。次の8時間、アポロ13号からの微弱なシグナルをパークスはしっかりと受信した。
そのシグナルは月に着いたアポロ11号の時の千分の一ほどだった。
緊急事態に突入した宇宙船は電力をセーブしなければならなかったからだ。これが宇宙船と管制センターの間をしっかりと中継した。


月への着陸を諦めた13号は、地球へ向かった。
残された電力もほとんどないアポロ13号は、エンジンのショート・バーンに奇跡的に成功し、完璧な大気圏再突入軌道に乗せられた。
爆発から4日後、3人の飛行士は太平洋上に着水した。
華やかなアポロ計画の陰で、パークス天文台が成し遂げた静かにして見事なサポートだった。