シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『ねむれ巴里』 金子光晴 ②

johnfante2010-03-20


『ねむれ巴里』では、金子は東南アジアから巴里へむかう道程で、数人の中国人の男女に出会う。
その後、日本人は中国人を虐殺し、侵略戦争を遂行したのだが、それに対する金子光晴の抵抗は何であったのか。
この自伝には、ベッドに眠っている譚嬢の肛門をさぐりあて、それの糞の臭いを嗅ぐという描写がある。
「われも他人もおなじ、生きるということの本質の、嘔吐につながる臭気にみちた化膿部の深さ、むなしさ、くらさであって、その共感のうえにこそ、人が人を憫み、愛情を感じ、手をさしのべる結縁が成立ち、ペンペン草のような、影よりもいじけてあわれな小花もつくというものである」
上の文章は、金子光晴という詩人の根源的な部分に触れているように思われる。
人種・国籍が何であろうが、人が生きるということの絶望のなかに、反対に連帯や友愛への繋がりを託しているかのようである。



「あぶれ者ふたり」の章で、特に印象的な出島春光については、彼が死んだときにパリの水商売の人たちが葬儀を出してくれたという逸話が語られる。
絶望的なエピソードを淡々と語るのだが、そこには「あわれな小花」もついている。
どうにもならずに死んでいくしかない人間の生の本質に、しんみりとした共感を寄せている金子光晴の視点がここにはある。


出島という男が金を稼がなくてはならないのは、元街娼をしていた女と一緒に住んでおり、その女と別の情夫が過ごす資金を稼ぐためであった。
『ねむれ巴里』のなかでも、特に際立った出口のなさというか、絶望的におかしいエピソードである。
「ときにはその損耗が、死にひき入れられるとおなじ快感を伴うのであった。(…)こんなことをしているとどんなひどいことになるかしれない、そのどんづまりを見てやりたい気持になった」とある。
この際、どんづまりや絶望を見てやりたい、というのは開き直りであろうか、それとも死への欲動のようなものか。
『ねむれ巴里』を読むと、忘れかけた生の不可解さ、生の寄る辺なさが思い起こされるのである。