- 出版社/メーカー: ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: DVD
- 購入: 1人 クリック: 56回
- この商品を含むブログ (60件) を見る
セレブの娘として生まれて
ドミノ・ハーヴェイは、映画俳優のローレンス・ハーヴェイ(ハリウッドの『ロミオとジュリエット』『アラモ』『影なき狙撃者』などの映画に出演)と、ヴォーグ誌のモデルをしていたスーパーモデルの母親、ポーリーン・ストーンとの間に生まれた。
彼女が後に、ロサンゼルスの街頭で殺人者や麻薬ディーラー、泥棒を追いかける賞金稼ぎとしての人生を送ることになったとしたら、誰もがそれを映画のなかの話だと思うだろう。
1993 年、映画監督のトニー・スコットは(「トップガン」「クリムゾンタイド」などを演出)、23歳のドミノ・ハーヴェイのプロフィールを読んだとき、この女性だと思った。
「私はハリウッドでドミノを探し出したよ。彼女は元ファッション・モデルで、すでに賞金稼ぎの仕事をしていたんだ」と、トニー・スコットは証言する。
「仕事で使う銃を持って母親の家に出入りすることは禁止されていたので、ドミノはガレージの上のアパートに住んでいた。ミリタリー雑誌とAK-47の銃が床に散らばっている部屋は印象的だったね」
キーラ・ナイトレイがドミノの役を演じた映画『ドミノ』を観た観客は、誰もがドミノ・ハーヴェイの複雑で、矛盾した冒険のような人生に驚くことだろう。
しかし、映画の公開を心待ちにしていたドミノ本人は、映画公開前の2005年6月27日に浴槽で死体で発見された。
死因は心臓発作であった。
ドミノ・ハーヴェイはアメリカでも数少ない女性の賞金稼ぎであった。50人もの逃亡者を捕らえるのに参加し、自ら危険に魅了されてその世界に飛び込んでいった、変わり者のセレブの一人であった。
15歳でロンドンのトップ・モデルに
ドミノ・ハーヴェイは、1969年にロンドンで生まれた。
イアン・フレミングのボンドガールのうちの1人の名をとって、そう名づけられた。
彼女の父のローレンス・ハーヴェイはリトアニアの貧困なユダヤ人の出であったが、英国の映画界で、きらめくような英国紳士を演じるために苦労を重ね、最後にはハリウッドなどで活躍した名優。ドミノの母親のポーリーン・ストーンは、60年代のスウィンギング・ロンドンを体現した、ヴォーグ誌のカバーガールであった。
ドミノは、両親と姉妹とロンドンの上流社会で育った。恵まれた特権階級の生活にいた。両親はともに有名人で、家にはファッション・モデルと映画スターがいつも出入りしていた。しかしそれは、彼女にとってこの上なく空虚な人生だった。
ローレンス・ハーヴェイは、1973年に胃癌で死去し、彼女の人生は一転した。そのとき、ドミノは4歳にすぎなかった。父親はかなり大きな遺産を残した。財政的に裕福なことは確実となった。社交家の母親は再婚相手探しに躍起。そんな生活に馴染めないドミノは、いつしか反抗的な態度が目立つようになる。
「父親が死んだあと、ドミノは非常に不機嫌な女の子になったのよ」と、母のストーンは語る。「ドミノは父親のどの映画も見ようとしなかったわ。そして、それ以上、父親については何も聞かなくなったの」
家族はロンドンのなかでも、貴族的な雰囲気で知られる地域に引っ越した。そこで、ドミノは上流階級の子弟たちが通う学校に行かされることになった。
学校をやめるまで、その厳しい校則に反抗しつづけた。男の子を相手に喧嘩や決闘するため、放校処分になることが相次いだ。ドミノは10代のうちに、4つの選り抜きの全寮制学校を転々とした。
「ドミノは背の高い、美しい女の子だったわ。そして、かなりお転婆な上に、スキンヘッドにしていたので、両性具有みたいな存在だったの」と、旧友のミス・ニールソンは語る。ミス・ニールソンは11歳のとき、イギリスの寄宿学校で他の女の子たちと群れをなす普通の女の子だった。そんなときに、ドミノに出会った。「そのときはまだ、モデルになることは考えていなかったようね」
やがてドミノは美しく成長し、15歳で早くもトップ・モデルして活躍。名門のフォード・エージェンシーのモデルとして契約し、ロンドンのキャットウォークの上で闊歩することに彼女の10代を費やした。
しかし常にまわりのモデル仲間やマネージャーとの衝突が絶えず、それはビバリーヒルズに移り住んでからも繰り返されていったという。
16歳のときに、ロンドン南西部にあるダーティントン・ホール校に落ちついた。そこで後に役立つ技術を習得した。カヌーを製造したり、熱心に格闘技の習得に励んだのである。そこで本当に自分のやりたいことを見つけた。
10代の後半はノッティング・ヒルのマンションで暮らした。モデルの他に、ファンキーな衣服をデザインしたり、ロンドンのクラブでDJとして働いたり、店の経営にもかかわった。
20歳のとき、ドミノは、母親の近くに住むため、ロサンゼルスへ引っ越した。ビバリーヒルズにある高級邸宅である。
そのとき母親は、ハードロック・カフェとモートンズのレストラン・チェーンの経営者である、ピーター・モートンと再婚していた。それらの店は、映画関係者が良く出入りする場所でもあった。ドミノは母親と緊密な関係にあったが、ときどき難しい関係になることもあった。「ドミノの個性は、母とは完全に異なるものだったわ」と、モートン氏の娘は言う。「母にとって重要だったことは女性であることで、それはドミノにとって何も意味していなかったのね」
カリフォルニアに移ってからのドミノは、サンディエゴの山で牧場労働者として働いたり、消防士のボランティアとしてメキシコ国境沿いの地域で働く経験をしたり、セレブの淑女らしからぬ経歴を追求していった。
ドミノの銃に対する偏愛は、その頃にはじまったらしい。
また、ドミノは人間を救い出すスリルに傾倒していったという。ドミノは消防士になることを決意したが、ロサンゼルス消防局は採用せず、救急医療士としての資格をとったが、救護隊員としての仕事は見つからなかった。
バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)への道
ある日、新聞で偶然目にした「バウンティ・ハンター募集」の広告をきっかけに、彼女はその世界に入ることとなった。
1、2週間のバウンティ・ハンターのコースを受けたあと、ドミノはその道に入る決心をした。ドミノを訓練した講師は、ベトナム退役軍人で、元ギャングスターの賞金稼ぎ、マルティネスであった。
「彼女はめっぽう若かったね。多分、その時にまだ22か23くらいじゃないか。 ブロンドのタフな女の子だったよ。迷彩のカモフラージュのパンツを大きなベルトで締めてな、タンクトップの上に大きいナイフをぶら下げていた。とにかく、彼女は目立っていたね」
マルティネスは、ドミノをボスであるセレス・キングⅢ世(2003年に死去)に紹介した。彼は南ロサンゼルスで賞金稼ぎのエージェント機関を運営しており、バウンティ・ハンターであると共に、市民権活動家でもあった。
そうして、ドミノはマルティネスのパートナーとして、90年代初頭の当時では、ただ一人の女性の賞金稼ぎとなった。
ドミノはおよそ50人の逃亡中の犯罪者を捕らえるのに関わった。マルティネスによれば、そのうちの10件はかなり危険な仕事であった。彼らはたびたびカリフォルニア州の外まで仕事に出かけることになった。
ドミノはテキサスで行われた、凶悪犯との銃を構えたにらみあいにも参加した。ショットガンに加えて、9mmのブローニング・ピストルを使用した。自分の愛用したショットガンを、ベッツィという愛称で呼んでいた。
「彼女は金持ちだから、いつも良い銃を持っていたね」と、マルティネスは言う。
前出の映画監督トニー・スコット氏は、一度、ドミノが逃亡者を探し出すのについていき、一週間行動を共にしたことがある。彼によれば、ドミノは賞金稼ぎの活動と犯人捜しの危険性のなかで、激しくアドレナリンを分泌させている様子であった。
保釈中の逃亡者を探し出した後、ドミノと仲間の賞金稼ぎは、賞金のなかの10パーセントを手にした(麻薬ディーラーを捕らえた場合、保釈金の10%が賞金稼ぎに支払われる)。ドミノは1年間におよそ3万ドルから4万ドルを稼いだ。 しかし、金はドミノにとって二の次であった。
もし、ドアを一枚多く蹴り開ければ、そこにはもっと大きな銃を構えた男が待っていることになる。そんな危険性についてどう思うかと、トニー・スコットがドミノに聞いたところ、彼女は「コインの表が出れば〝生〟裏が出れば〝死〟ただそれだけのこと」と答えたそうである。それはドミノのモットーだった。
ドミノは、チョコという渾名だけで知られている男と、エド・マルティネスと働いた。
彼らには我流のやり方があった。モーテルに部屋を借り、逃亡者が潜む家の地図を引っぱりだす。そして、マルティネスが「お前はこっちから、お前はそっちから、おれはこのドアを蹴り開ける」という風に、擬似的な軍隊のようにして仕事をこなした。
一方で、ドミノは賞金稼ぎの勤務中に薬を使い続けた。
マルティネスの話によれば、コカインとスピード、それに時折ヘロインを使用した。
ドアをぶち壊し、誰かを逮捕し、薬を奴等から取りあげて、さらに賞金が支払われることになる。麻薬は賞金稼ぎの報酬の一部と見なされていた。何度も、ドミノは麻薬常習の習慣をやめようとした。彼女の友人であるスティーヴ・ジョーンズ(セックスピストルズのギタリスト)は、ほぼ20年もの間麻薬中毒でアルコール中毒だったが、彼はドミノを何とか助けようと尽力した。
「ドミノは非常に内気で、社会性というものが欠けていたね。友人に会わせようと連れ出しても、彼女は一言も話そうとしないんだ」
タブロイド紙は、しばしばドミノをレスビアンと言ったが、実際は何人かの男性とデートをしていた。社会的な敗者が好きだった。人間の暗い面に魅了されていた。
その半生がハリウッドで映画化されるが…
90年代中頃、ロンドンのタブロイド紙は、ドミノ・ハーヴェイの半生の概略を書き立てた。
そして、それが映画監督のトニー・スコットの手に渡った。「私は彼女を探し出した。それが全ての始まりなんだ」と、スコットは言う。スコットはドミノに会い、インタビューをテープ録音した。それを元に脚本の基礎を練った。
ドミノは1995年に36万ドルで、スコットに彼女のライフストーリーを売り渡した。その前後に、マルティネスはロサンゼルスから立ち去っていた。
ドミノが賞金稼ぎを辞めたのは、そのことが影響している、とされている。1997年から1998年にかけて、母親は麻薬依存から抜けられるように、ハワイにあるリハビリテーション・クリニックにドミノを登録した。
2000年にドミノはロサンゼルスに戻って、サンタモニカ・カレッジとUCLAでコンピュータのクラスを履修した。その時期には、コンピュータ・グラフィックスの仕事をしたり、ウェスト・ハリウッドにあるナイトクラブでDJとして勤めた。
ドミノと妹のソフィはウェスト・ハリウッドにコテージを買った。映画について話すために、6ヵ月ほどスコットに会い続けた。2003年に、彼女はメタンフェタミン(覚醒剤、ヒロポン、スピードは別称)所持の理由で逮捕された。
初犯者として、彼女は裁判を避けて、処置プログラムに入ることもできた。ソフィは、ビジネスマンで慈善家のリチャード・ブレタと結婚した。姉妹は次第に疎遠になっていった。
2004 年には、構想から12年経った映画「ドミノ」はついに製作に向かっていた。
10月には、主演のキーラ・ナイトレイが、200万ドルの出演料で、ドミノを演ずるために署名した。6000万ドルの製作費の映画は、ロサンゼルスとラスべガスで撮影され、近々公開されることになっていた。ドミノはしばしばロケ現場に姿を現し、技術的なコンサルタントを勤めた。
2005年5 月、連邦検事局がドミノを起訴したあと、彼女は家で逮捕された。500グラム以上のメタンフェタミンを所有していたという理由からだった。
ドミノ・ハーヴェイが死んだ日、昔の思い出にふけるために、旧パートナーのエド・マルティネスは、南ロサンゼルスの賞金稼ぎとして一緒に過ごした3年間のスリルに富んだ日々を振り返っていた。
ドミノは35才になり、麻薬を運んだ疑いにより10年の懲役を受けるところであった。
彼女が逮捕された知らせは英国のタブロイド紙の報道を通じて、格好のスキャンダルのねたになった。そして、それは彼女を激怒させた。
「ドミノは、自分がはめられていると俺に話していたよ」と、マルティネスは言う
それから、映画の話が持ち上がっていた。
彼女自身の人生に基づくアクション映画「ドミノ」は、劇場公開される直前だった。
キーラ・ナイトレイが主演をつとめ、普通のハリウッド映画らしい雰囲気を、ドミノの人生に重ねようとしていた。映画の中では、賞金稼ぎになったドミノの行動を、リテリティ・テレビの番組取材班が追い続けるという設定である。
事実そのままに、映画でもドミノは、ヨーロッパの元ファッション・モデルとして描かれている。彼女は映画による誤解を正すために、自分の人生についてのドキュメンタリーを製作したい、とマルティネスに話していた。
2005年6月27日、友人たちはドミノのウェスト・ハリウッドにあるコテージを訪ねた。
午後11時前後、皆はその場を立ち去った。麻薬中毒を助けるために母親が雇った看護の4人の人間だけが、その場に残っていた。
ドミノは洗面所に入って、ドアを閉めた。
7分後に、彼女は意識不明の状態で発見された。
午後11時過ぎ、警察がドミノの家に到着した。彼女は救急センターへ連れて行かれた。
11:28に死亡が宣告された。死因は公表されていない。おそらく死因は麻薬のオーバードーズ(規定量超過摂取)ではないかとのこと。ドミノの葬儀には、出演者のミッキー・ローク、監督のトニー・スコット、セックス・ピストルズのギタリストのスティーヴ・ジョーンズ、義父のピーター・モートンらが出席した。
母親は、ドミノがあまりに多くの鎮痛剤を飲んだのだと推測している。しかし、彼女がどのように錠剤を得たかについてわかっていない。
1969年8月9日生まれ、2005年6月27日没 。あまりに短い、駆け抜けるような人生だった。
《参考》
NY Times 記事(2005/10/11)