シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

タミル語映画

johnfante2006-06-18

ムトゥ 踊るマハラジャ [DVD]

ムトゥ 踊るマハラジャ [DVD]


北京で


 ある年の夏に北京を訪れたとき、場末の映画館で『トータル・リコール』が上映されていたので、暇つぶしに見に行った。数年前のヒット作だというのに、劇場は人の波でごった返し、北京っ子たちの熱気でムンムンとしていた。
 香港製やハリウッド製の外国映画は、北京語に吹き替えられるのが普通なのだが、その時観たフィルムのダイアローグは英語のままで、代わりに北京語と広東語のダブル字幕スーパーがつけられていて、とても映像が見にくかった憶えがある。公用語が幾つもあるところは大変だ。

 北京の映画事情くらいでくじけていたら、「マサラ・ムーヴィー」という大変な代物に出くわしてしまった。インドが年間に800本もの映画を生産し続けていて、世界最大の映画王国であることは知っていたが、さて、多言語の障害はどのように乗り越えているのか、以前からとても気になってはいたのだ。

 なにせ、一口にインド映画といっても、インドという国は公用語だけで18言語もあり、さらに方言や地方語などを含めば200以上も言語があるという、人種のみならずダイアローグのるつぼでもあるのだ。まさか、ヒンディー語で作られたフィルムに、5つも6つも、字幕スーパーを入れるわけにもいかないだろう、などと考えていた。
 すると、ナント驚いたことに、『ムトゥ踊るマハラジャ』はタミル語という南インドの一地方語で作られている「タミル映画」なのだという。つまり、ヒンディー語が話せなければ、自分たちの地方語だけで映画を作ってしまうのだ。日本に「関西語ムーヴィー」や「ズーズー語ムーヴィー」が存在しないことを考えれば、そのネイティヴ・ランゲージに払う敬意は並々のものではない。
 さらに驚いたことには、タミル語は二千年もの古い歴史を持ち、現在、全世界で七千万人もの人々が使っている大言語だということだ。


踊るマハラジャ


 映画の物語自体はいたってシンプル。
 大地主の屋敷で働く、使用人のムトゥ(スーパースター・ラジニカーント)が、ある日ひょんなことから旅芸人一座の花形女優ランガ(ミーナ)と恋をする。ところが、神様のように崇めているご主人様も、ランガに一目惚れをしてしまい、ムトゥは大ピンチ。必ずハッピーエンドになると分かっていても、はちゃめちゃに展開する物語に圧倒されている間に、2時間46分がアッという間に過ぎてしまう。
 唐突に、ブルース・リーそっくりのカンフー・アクションが入り込んだり、数十匹のインド象を前に、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を意識したミュージカル・シーンが挿入されたりで、サービス満点なのだ。


 映画の中に、印象的なワン・シーンがある。旅回り先の村で、ランガが地元のヤクザに襲われているところをムトゥが助ける。州境を越えてとなりのケーララ州(マラヤーラム語地域)に逃げ込むムトゥとランガだが、帰り道が分からなくなり、通りがかりの人々に道を尋ねるムトゥ。
 インドでは、「州の境を越えること」が、すなわち「言葉がかわること」を意味するので、タミルナードゥ州(タミル語地域)育ちのムトゥは、言葉が全然通じなくて右往左往し、地方巡業で多数の言語に親しむランガに手玉に取られてしまう。


 ネイション・ステイトに生まれ育ったぼくたちには、ちょっと判然としにくいこんな筋書も、マサラ・ムーヴィーを観るときには気をつけておきたいポイントの一つだ。このような笑いを誘うコミカルなシーンも、立ち止まってちょっと考えてみれば、州境を越えてしまえば言語が違うという、リアリスティックに「他者」を認識せざるを得ない現状の中で産みだされた、映画的フィクションなのだ。
 国民国家が成り立たない地平で、複数のダイアローグを持つ人々が、歌って、踊って、笑って、お互いを肯定し合っている。そんな状況は、同時に、自分のエスニック・アイデンティティの再発見にもつながっていく。馬車の上で、ムトゥがタミル語の美しさについて語り出すとき、初めて「マサラ」という言葉の含む、多様な彩りが、少し見えてきた気がした。


初出 「Hotwiredhttp://hotwired.goo.ne.jp/cave/work/w33002.html