シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

バート・マンロー ①

johnfante2007-06-07


ニュージーランド南端の片田舎に住む
バート・マンローは、年金生活の貧乏な老人だった。
くず鉄や台所用品を使い、53年に製造中止された
インディアン・モーターサイクルを日々改良していた。
彼の夢はこのポンコツで「世界最速の男」になること。
これは68歳にして夢をかなえた男の話である。

インディアン・モーターサイクル


インディアンモータサイクル は、アメリカ合衆国で最も古いオートバイのブランド。マサチューセッツ州スプリングフィールドにて、ジョージ・M・ヘンディとカール・オスカー・ヘッドストロウムよって1901年に設立された。
ハーレーに先立つこと2年というから、名実ともにネイティブ・アメリカンだといえる。
V型2気筒エンジンを搭載した大型オートバイ。クラッチなし、単速、ベルト・ドライブの動力伝達機構を備えており、30年代まで続くVツイン黄金時代の先駆者達であった。
1927年には4気筒のインディアンフォーを発表。しかし、原理的に60キロ以上出すようには作られていなかった。
ハーレーよりもパワフルで速いというのが当時の売りだった。


最も人気のあるモデルは「ボーイスカウト第二次世界大戦前)」と「チーフ」と呼ばれるモデルである。1922年〜1953年時が全盛期だった。
インディアンモーターサイクルは、米国におけるオートバイの歴史をハーレーダビッドソンと共に次々と塗り替えてきたが、1953年、経営不振により全ての製造を中止した。
現在でもクラシック・オートバイ好きの間では定評と人気がある。


バート・マンロー


バート・マンロー(1899-1978)は、1967年に68歳にして、1000cc以下の部門で世界最速記録を達成した伝説のライダーである。
1989年、バートマンローは、ニュージーランドの片田舎の町、インバーカーギルの彼の両親の家で生まれた。彼の双子の姉妹は、出生と同時に死んでいた。
バート自身も医者に「2歳まで生きられないだろう」と言われていた。ニュージーランドのオートバイ史にとって幸いにも、この医者の診断は間違っていた。


1915年に、彼は最初のオートバイを買い、1919年、サイドカー付きの「サイクロ(Clyno)」を買うために貯金をした。
購入後、バートはサイドカーを取り外し、地元のオートバイレースに出場し、そこで速度記録を次々に塗り替えていった。
しかし、その後、アメリカ製の大型バイクであるインディアン・モーターサイクルが登場し、サイクロは時代に忘れ去られることになった。


映画の予告編


インディアンとの出会い


1920年に、バートは21歳のときに生涯を捧げる恋人に出会った。
その相手こそ、1920年型中古のバイク、インディアン社の「ボーイスカウト」である。
21歳のバートは、インバーカーギルにあるガレージで、この600ccのオートバイに出会った。V型2気筒エンジンを舐めるように精査し、働いてお金を貯めて、このオートバイを買った。


バート・マンローが買った「ボーイスカウト」の自動2輪は、5OR-627型のエンジンを搭載していた。これは、基本的に1931年まで、インディアン社の同クラスのマシンで使用されたものである。
そして、このマシンは彼の手によって改良され、世界最速のインディアン・モーターサイクルになる運命にあった。


妻子に見捨てられて


1927年、彼はフローレンス・ベリル・マーティンと結婚した。
1925年、25歳のバート・マンローは、結婚を機にオーストラリアに移住した。シドニーメルボルン近くのサーキットでレースに明け暮れた。
29年に大不況になり、スポンサーつきのレースが開かれなくなった。バートと妻のベリルは2人の娘を連れて、ニュージーランドのインバカーギルに帰った。後に子どもは4人になった。上からジョン、ジューン、マーガレット、グウェンである。


バートは親の農場に、家とバイク用の作業場を建てた。
スコットランド出身の倹約家の一族の血を引く、まじめな農場主だった父親は、バートの浪費を嘆き、インディアンを見るのも拒んだ。
バートは母親が乳牛を飼っていた場所に、芝のレースコースを作ってしまった。
寝ても覚めてもバイクのことが頭から離れないマンローは、仕事を辞めて車庫にこもり、バイクの改良に明け暮れた。
そうして、妻に愛想をつかされて別れることになった。
しかし、なぜか周囲はこの一途な男、マンローのことが憎めなかった。彼は40年代に、オーストラリアのロードレースに登場し、数々の新記録を打ち出していった。