シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

バート・マンロー ②

johnfante2007-06-11

バート・マンロー スピードの神に恋した男


「世界最速記録」を目指して


しかし、なんと言っても、バートの夢は「世界一の最速記録」を叩き出すことだった。
彼が次に目指したのは、世界大会の中でも名高い、アメリカのソルトレイク・シティで行なわれる「ボンヌビル・スピードウィーク」であった。
米国ユタ州ソルトレイク湖は、アメリカ大陸が、海底から持ち上がった時に出来た巨大な海水溜まりの残りである。
したがって、濃縮された塩分が飽和状態に近い「辛い湖」になっている。その近くにあるのが「ボンネビル・フラット」と呼ばれる、広大な塩の平原である。


雨が降って塩が溶け、その後、照りつける太陽によって塩分が平らに固まったものだ。毎年夏の終わり頃には、この塩の平原は特に真っ平らな状態になる。
そのため、2輪・4輪の最高速度チャレンジに最適な環境が整うのである。超高速では、わずかな道路の歪みが致命的な結果を引き起こしてしまうから、この条件は最高に近い。
「ボンヌビル・スピードウィーク」は年に1回行なわれるドラッグレースで、ここでは車やバイクが、フラットを一直線に爆走し、世界最高速を競う。
賞金は無い。ここは、ただ世界最速に挑戦する場なのである。


62歳からの挑戦


バートの人生の次のステージを拓く時、それは孫のいる年齢になってようやくやってきた。1962年、初老のバートは25年来の夢である、ソルトレイク・シティで開催される「スピードウィーク」に初挑戦することを決意した。
バート自身とインディアン・モーターサイクルが、アメリカに渡航するための費用のために、年金生活に入っていたバートは少しずつ金を溜めた。そのため倹約生活を強いられ、ガレージで寝起きし、独力でオートバイの改良をし続けた。


年金での生活ゆえに、パーツを満足に購入することもできない。そこで手作りでつくることにした。台所用品を再利用し、オイルタンクの栓にはブランデーのコルクを使用。タンクのカバーの取っ手にはドアノブ使うなど、独特の工夫をこらした。
ガス会社がガス器具を修理し、交換していった鉄のガスパイプの細かな部品から、バートは燃料入れのバレルをつくった。この速度計もついていない20年型の、40年前のポンコツで一体どこまでやれるのか。


バートは無勝手流だった。彼の方法は、控え目に言っても正統的とは言えなかった。彼は古くなった車輪の輪止めを、マイクロメータ(短い長さを測る道具)に使用した。
空き缶のなかに細かな部品を投げ入れた。そんな具合にして、スタンダードの2気筒エンジンを、自分で作ったオリジナルの4気筒エンジンに改造していった。
元の「ボーイスカウト」の最速は55マイル(約88キロ)に過ぎなかったので、改良に改良を重ねる必要があった。彼は自分で、タンク、ピストン、気筒、注油システムなども作った。
ストリームライナー(流線形のセル)の空気抵抗を無くすために、自転車で何度も実験を重ねた。
バートはこれをすべて自分だけの手で、くず鉄や生活用品を利用して、自分のガレージで行なった。


世界最速のインディアン ゴッド・オブ・スピード・エディション [DVD]


ボンヌビル・スピードウィーク


1962年、バートはニュージーランドから初めて北米への旅をした。所属する単車クラブが集めてくれたカンパも微々たるもの。今年は無理かと諦めかけたとき、心臓発作で倒れ、ドクターストップがかかった。体は年齢には勝てず、前立腺にもガタがきている。
やるなら今しかないと決心を固めたバートは、郵便局に勤めるガールフレンド、フランのアドバイスで家を抵当に入れて銀行から借金し、出発の日を迎える。やっと資金を捻出したが、仲間の誰も、本気で世界記録など信じていたわけではなかった。 


貨物船に乗り込み海路アメリカを目指す。上陸地、ロサンゼルスから大切なバイクを牽引してネバダの砂漠を越え遥かユタ州まで。しかし、バートがポンネヴィルに到着した時、意志に反して、様々な壁に阻まれることになった。


まずは、1カ月前に出場登録していなければならないことを、バートは知らなかった。バートは主催者の行為で何とか出場できるようになった。
が、今度は「スピードウィーク」のメカニックが、安全性テストで「前代未聞のポンコツ」と笑い飛ばし、出走資格なしと宣告した。
半世紀近く前に製造されたマシンで、さらに出鱈目に改造されているからだ。静止用のパラシュートもついていない。さらにバートは耐熱式のスーツを着ていない。
主催者側は、事故でも起こされたら堪らないので、バートに挑戦を諦めるように説得した。


ポンコツに乗ったスピードスター


バートの62歳という年齢も、200キロ後半で走駆する極限状況に耐えられないと判断の材料となった。「年齢オーバー」だというのだ。さらに、バートは持病に狭心症を持っていて、薬のニトログリセリンを持ち歩いており、ドクターストップをかけられていた。
だが、彼は40 年以上かけてスピードを追求し、25年間望み続けた「スピードウィーク」は簡単に諦めることはできなかった。
最後には主催者側が折れ、地球の裏側から遥遥やってきた老年の男に、お情けで参加させることに決めた。

バートの「インディアン」は独自でスタートできないため、数人が両脇で押して、エンジンをスタートした。観客をその姿を見て笑った。
しかし、バートがぐんぐんとスピードを上げていき、アナウンスで放送されると人々は度肝を抜かれた。
バートは850ccのエンジンで、178.971 mph(約288キロ)の当時のこのクラスのオートバイの「世界最速記録」を達成してしまったのである。


世界最速のインディアン


2年目より、バートのチームはアメリカ中から集まったボランティアで構成されることになった。彼らはバートに、援助と励ましを提供するために自発的に集まった。
1963年には195mph(約314キロ)で記録を更新。
1966年には920ccにエンジンを置き換えて、950ccの部門でも183.586 mph(約295キロ)記録を達成。
その年、片道で記録した190.07 mph(約305.8キロ)は、いまだに破られていないインディアン・モーターサイクルの史上最速の公式記録である。


ソルトレイク・シティへでの挑戦は事件なしには語れない。
1973年のモーターサイクル・ニュージーランド誌によれば、次のような問題が起きた。1967年のスピードウィークで、最初はうまく事が運んでいた。
それから、走力が上がってくるとインディアンの後ろ半分が、魚の尾のようにぐらつく現象が起きた。バートは均衡を保つために、体を起こした。
時速300キロに近い風が、バートのゴーグルを引き剥がした。眼球を顔の奥に押し込んだ。ものを見ることができなかった。その時、バートは300キロの厚い壁を破っていた。このときに記録した、非公式の速度記録は331キロ(205.67mph)であった。


バート・マンローは、1978年12月に死んだ。彼のインディアン・モーターサイクルは、57年間、南島に住む熱心な彼の手で改良を重ねられた。
彼は技術力と忍耐力により奇跡的な成果と発明の才を見せ、全てのニュージーランド人(とモーターサイクリスト)が誇り高く思う勇気の伝説を残した。
2006年に、彼は伝説のライダーとして、AMAアメリカン・モーターサイクリスト協会)の栄誉の殿堂に入れられた。
1967年、彼はインディアンの1000cc以下のクラスで世界最速記録を樹立したが、驚くべきことにこの記録は未だに破られていない。