シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

戒厳令下チリ潜入記 ③

johnfante2007-09-02

Clandestine in Chile: The Adventures of Miguel Littin

Clandestine in Chile: The Adventures of Miguel Littin


狭まる包囲網


フランス・チームのジャン・クロードが、サンチアゴに戻ってきた。
ミゲル・リティンは初めて地下鉄に乗った。彼が亡命した後に、フランス人の手で建設されたもので、ジャン・クロードなら撮影できるのではないかと相談していた。
ペドロ・バルディビア駅の出口の階段のところで、1人の私服警官と視線がぶつかった。警官は上着のポケットに両手を突っ込み、口にタバコをくわえていた。
「何でもいいから話して。でも身振りをしたり、視線を動かしたりしないで」
ミゲル・リティンは隣のジャン・クロードに言った。


2人は素知らぬふりして歩き続け、表に出た。アラメダ通りは家に帰る人々であふれていた。ジャン・クロードは右へ走り、ミゲル・リティンは反対へ行き、人ごみに隠れた。
タクシーが来たので乗った。地下鉄の駅から3人の男が出てきて、戸惑った様子をしていた。
4ブロック先でタクシーを降り、別のタクシーを捕まえて逆方向へ行った。次から次へと車を乗り換え、もう追求できないだろうところまで辿り着いた。
映画館があったので、頭を整理するため、何の映画をやっているか確かめもせずに中にへ入った。


ジャン・クロードが良くない知らせを持ってきた。
AFP(仏の通信社)がパリから発信したニュースに、「チリで仕事をしていたイタリアの映画撮影隊が、ラ・グレアで無許可撮影をしたため逮捕された」というのがあった。
ジャン・クロードは他のチームが来ていることを知らない。「私たちには関係ないことだ」と言っておいた。
フランキーが「いよいよ終わりか」と言うので、ミゲル・リティンは心配になり、すぐにイタリア・チームを探しに行った。グラツィアと彼らは無事であった。


誤報だろうが、われわれの存在は知れ渡っている」カメラマンのウーゴは言う。
「外電のことを聞く前から、尾行されているような気がしてたの。ホテルへ戻ったときも、部屋のトランクや書類がひっくり返した後だったわ」とグラツィア。
その夜、ミゲル・リティンは捕まった場合に備えて、最高裁判長宛てに手紙を書いた。
亡命者の自分が密かに禁をおかして帰国し、潜入していることを明らかにするためだった。




ミゲル・リティンの75年の作品「Actas de Marusia」


チリへ再入国


ミゲル・リティンのサンチアゴ滞在も、1ヶ月に達していた。
多くの人に接触し、新しい身分にも慣れきり、段々と合言葉を使わなくなり、潜入当初の警戒感はなかった。
2つの山場、モネーダ宮殿の撮影と、軍の不満分子の将軍との会見はペンディングになっていた。警察に追われている疑いがあり、彼とフランキーは一度出国した上で再入国することにした。
偽の身分のまま出国(空港のブラックリストには乗っていなかった)し、アルゼンチンのブエノスアイレスに到着。本物のパスポートで入国しようとしたが、以前とかけ離れた姿なので不可能だった。ミゲル・リティンはアンデス山脈の麓、国境の町メンドーサに飛び、トンネルを通ってチリに抜けることにした。


1人でカメラを持って歩いていると、チリ警察の車がやってきた。彼らは道に迷った哀れなウルグアイのジャーナリストに同情してくれた。
国境の検問所で、国家警備隊員にトランクを開けるように言われた。
たくさんのジターヌ(フランス煙草)の空箱が飛び出し、床に転がった。ほとんどの箱に撮影メモが書かれていた。年上の方の警備隊員が怪しんで、調べだした。
「思いついた詩を書きとめてあるんです。よかったら取っておいて下さい」
「こんなもの、何になるのかね?」
そう言って、空箱をトランクに入れるのを手伝ってくれた。
こうして、出国した翌日に、サンチアゴから1000キロ離れた地点からチリ国内に再潜入した。


なつかしい故郷


プエルトモンでオランダ・チームが待っていた。
ここの撮影を一緒に終えると、オランダ・チームはブエノスアイレスへ出国した。
ミゲル・リティンは1人で移動し、故郷の町サンフェルナンドへ行った。アルマス広場で写真を撮っていると、学校へ行く何人かの子供たちが立ち止まった。
女の子がバレエのステップをして見せたので、もう1回やってくれるように頼んだ。数人の子供が彼の横に座り、こう言った。
「この国の未来を入れて、写真を撮って下さいね」


15歳、17歳、19歳からなるチリ・チームと合流し、日暮れまで撮影を続けた。
外出禁止時刻までに、車でサンチアゴに戻る時間はあった。リカルドと海へ行き、翌日のためにロケハンをした。仕事に夢中になったあまり、時間に気付かなかった。
外出禁止時刻を過ぎているのに気付き、車をわき道に入れた。あかりを消して坂道を登り、とっさに村の反対側にある母の家の前で止めた。
とにかく朝まで身を隠さなければならない。サンチアゴに戻るには、最低でも検問所が4つはあるのだ。
そっと居間に入った。母と伯父のパブロがいた。伯父とは12年ぶりだった。
母も伯父も彼だと気付かなかった。
「僕だよ、息子のミゲルだよ」
「ああ、めまいがするわ!」
 

再び戻ったサンチアゴでは、不安の日々が続いた。
軍の不満分子との会見はいつになるか分からなかった。ようやく撮影許可が下りており、ミゲル・リティンはイタリア・チームと合流し、モネーダ宮殿(大統領府)へと向かった。
撮影は丸2日間にわたった。案内係の若手将校がつき、各部屋の意味や歴史、建物の修復についての質問に答えた。
2日目、午前11時頃に着いたが、落ち着かない雰囲気が漂っていた。
将校たちは気難しくなり、電気を消せとか、カメラを止めろと横柄にいった。
私服の護衛が撮影を阻止するため、前に立ちはだかった。そのとき、やや太った感じのピノチェト将軍が、副官と執務室の方へ歩いていった。


撮影隊のすぐそばを通り過ぎたのだ。モネーダ宮殿の撮影が終わると、イタリア・チームも出国した。ドキュメンタリーの撮影計画は、これで全部終了した。
2日後、ミゲル・リティンはレストランで新聞の社説を読んでいた。
誰かが来て「社説欄に興味をお持ちなんですね」と言うことになっていた。
そこを出ると、入口に車が待っている手はずである。30歳くらいのがっちりした男が、何度もひじで突ついてきた。合言葉を言わない。
男は「僕のことを覚えていないのか」と大声で叫んだ。
人の注目が集まった。彼は思い出した。頭のおかしい、元ボクシング・チャンピオンだった。慌てて店を出た。


脱出劇


ホテルに戻ると、フランキーの「727に君のトランクを持っていく」という言伝があった。
警察の包囲がホテルまで及んだのだ。727とはブルジョアの支援者、イサウラ家のことだ。そこにフランキーの伝言があった。
それによれば、その日の午後、私服の諜報員がホテルに来て、ミゲル・リティンとフランキーのことを色々と聞いていったという。
フランキーは翌日やってきて「出て行くか、潜るか」の選択を迫った。
その日の午後の、モンテビデオウルグアイ)行きの飛行機の座席を2つ確保していた。不満分子の将軍との会見の可能性がある限り、チリを出たくなかった。
電話をすると、合言葉をきちんと言う男が出て「次に接触がうまく行かなければ、2週間以内には接触できないと思ってほしい」と言った。そこで空港に向かった。


工事で交通が遮断され、ブダウェル空港への道で迷った。国家警備隊のパトロールを捕まえて、フランキーが「30分後の飛行機をつかまえないと、郵政省との契約が破談する」と弁舌をふるい、サイレンを鳴らす彼らを先導にして空港までひた走った。
空港でまた会見のための電話をしたが、不可能になった、との返事だった。
飛行機まで15分しかなかった。出国手続きの役人は「モンテビデオ行きはもう出ました」と言った。スピーカーからミゲル・リティンの偽名が叫ばれた。
彼はフランキーの搭乗券を自分の書類のなかに入れたままだった。
出口まで走っていき、フランキーを引っ張ってきた。飛行機に乗ったのは2人が最後だった。


「皆様、大変怖れ入りますが、切符をご用意下さい。検札があります」
飛行機はかなり飛んでいた。
私服の人間が2人、搭乗券を調べていた。追っ手かとも思われた。
彼らの番が来て、ミゲル・リティンはできるだけもったいぶって見せた。検札係はちらっと視線を走らせただけで、彼には目もくれなかった。
飛行機は、夕日に赤く輝くアンデスの雪の上を飛んでいた。
スチュワーデスが歓迎のカクテルを配りにやってきた。こちらは何も言わないのに、こう教えてくれた。
「飛行機に乗客が1人、こっそりもぐり込んだと思ったらしいのです」
ミゲル・リティンとフランキーは、その乗客のためにグラスをとった。
「もぐりこんだのは2人だ。乾杯!」