シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

マヌエル・プイグと映画 ①

johnfante2007-11-16

グレタ・ガルボの眼

グレタ・ガルボの眼


映画監督を目指したマルケス


新世界から旧世界へ、あるいはカリブ海から大西洋をへて地中海へ。
海は限りない欲望を満たしつづける豊穰の泉であり、渇ける者からも容赦なく汲みつくす慈悲なき荒野だ。そこでは、政治、映画、文学といった地上でのよしなし事は波間に溶解し、あらゆるとっぴな交通が許され、無軌道な生命のかたちが試される。


大学を中退したのち、カリブ海岸の港町バランキリャで新聞社に勤めていたG・ガルシア=マルケスは、二六歳のとき初めてヨーロッパへの片道切符を手にいれた。
新聞記者として五四年にローマに派遣されたのだ。そこで映画批評を本国に書き送りながら、九ケ月のあいだ実験映画センターの監督コースに通った。
その後フランス、ソビエト、東欧へと、コロンビアの青年は流れてゆく。一方、祖国では友人が処女作『落葉』の原稿を印刷所に持ちこみ、小説家ガルシア=マルケス誕生の準備をすすめていた。
若い頃に映画監督を志したことは、彼にとって小説家に至るまでの迷いを表わすにすぎなかった。


映画青年プイグ


ガルシア=マルケスのローマ到着の二年後、五六年にひとりの青年が奨学金を得て、ブエノスアイレスからローマに渡った。彼、マヌエル・プイグはまさに映画監督になることを夢みて、生まれて初めて外国の地を踏んだ。
実験映画センターに入学した二二歳のプイグは、そこで『靴みがき』や『自転車泥棒』の脚本家ザヴァッティーニに学んだあと、当時すでに巨匠と認知されていたデ・シーカ監督のもとで助監督として修業をつんだ。


ところが、デ・シーカが名優ぶりも発揮している『武器よさらば』の撮影に入ったとき、映画に対するプイグのストレスは頂点に達した。
わがままな大女優、権威的な『風と共に去りぬ』の大プロデューサー、無能な大監督。映画製作というものは、金や体力や人間関係など映画自体とは無関係なところで人を挫折へと追いこむものだ。
カチンコを片手に撮影現場で狂奔していたプイグも、しまいには疲れ果て自分の無力さに絶望してしまう。
それでも、アルゼンチン出身のこの青年は脚本家としてヨーロッパで映画に関わろうとするが、三○歳をすぎても芽がでずに、とうとう映画をあきらめてしまった。



蜘蛛女のキス


『蜘蛛女のキス』がブラジルのヘクトール・バベンコ監督の手で映画になり、アカデミー賞の会場で満場の拍手をもって迎えられたとき、挫折したかつての映画青年は何を思ったのだろうか。
プイグの屈託した心のありさまを、私たちは小説中にみることができる。


『蜘蛛女のキス』は、ブエノスアイレス刑務所の監房のなかで、ホモの中年男(モリーナ)がテロリスト(バレンティン)に延々とハリウッドのB級メロドラマのあらすじを語っていくという形式でつづられる。
バレンティンは自分が「バーで政治について軽口をたたく人間」とはちがい、政治犯として牢獄で拷問を受けている実践的なマルクス主義革命家だと自負している。
そこで、モリーナの吹聴する女らしい優しさや感受性の強さなどは、拷問する人間を倒すためには何の役にもたたないと一蹴する。
ところが、同房のモリーナが「もし、人がみんな女みたいだったら、拷問する人間なんていないはず」とこぼすとき、バレンティンは思わず納得してしまう。


蜘蛛女のキス (集英社文庫)

蜘蛛女のキス (集英社文庫)