シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ウィルヘルム・ライヒと映画 ①

johnfante2007-12-01

ウィルヘルム・ライヒ―生涯と業績 (上)

ウィルヘルム・ライヒ―生涯と業績 (上)


『W.R:オルガニズムの神秘』


「彼はね、どんな人間でも、爆薬を抱いてると主張してるの。その大量のエネルギーは戦争か革命で解放されるのよ」
「君の熱意は大いに気に入ったよ。が、彼の理論は、地上にはあり得ない永久オルガスムスに似ていませんか」
ユーゴスラビアの美容師の女性とソ連アイス・スケート選手が、初めての逢瀬で彼(ウィルヘルム・ライヒ)の肖像写真を前にこのような会話をかわす。
『W.R:オルガニズムの神秘』という映画のワン・シーンだ。イタリアのベルトルッチコミュニズムに共感を寄せた『暗殺のオペラ』を発表した七〇年、隣国のユーゴでは逆に自国の共産主義に最大の罵倒を浴びせる映画が製作されていた。
監督のドゥシャン・マカヴェイエフは関係者へのインタビューを通じてライヒの足取りを追いつつ、ドラマ部でその思想をやかりやすく提示してみせる。


美容師はウーマン・リヴの主導者で、ソ連十月革命はフリーセックスの点で成功していない、と過激な発言をしているが、その実自分は満たされた性生活を送っていない。そんな彼女がフィギュア・スケートの芸術家と恋に落ちる。
だが、スケート選手がこちこちのスターリン主義者であることが発覚する。美容師が「あなたは人類を愛している、でも生きている個人は愛せない」と赤いファシストの恋人を糾弾すると、彼はつい彼女を殺してしまう。美容師やスケート選手が象徴する左翼性ほど、ライヒの思想からかけ離れたものもない。
たしかにライヒはフリーセックスを奨励しているとして故国を追われ、五カ国を亡命して歩いたのち、米国でアカ呼ばわりされたあげく獄中で死んだ。監督のマカヴェイエフは、ライヒの研究活動を「アカ」や「公辱罪」として排除した人々の誤解をとき、その生涯と業績を生の探究のひとつとして考え直そうと提案している。



ウィルヘルム・ライヒ


ライヒの経歴は精神分析家として、フロイトの弟子としてはじまった。
フロイト派の通例どおり、ライヒは患者を分析する前に、まず自己の性生活を徹底的に解析しようとした。一八九七年生まれのライヒは、幼年期から思春期にかけて、オーストリア・ハンガリー帝国領の田舎町ジュジネッツに育った。
十二歳のとき、母のセシリアがナイトガウンだけをまとって子供部屋を通りすぎ、ライヒの家庭教師の室にすべりこむ気配を察した。
後をつけたライヒはドアの外から母の恥態を耳にした。父レオンに母と家庭教師の関係をほのめかしたところ、父は母を売女呼ばわりして責めたて、そのことから母セシリアは安物のクレンザーを飲んで服毒自殺した。


母を間接的に自殺に追いこんだという罪の意識をもったライヒは、重度の乾癬の疾患にかかり、一生この皮膚病に悩み苦しむことになった。
ここに精神病理学と生理学の密接なつながりという確信、つまり精神病は純粋にこころの問題ではなく、身体から起こって身体に影響するという、ライヒのもっとも重要な独創性がここにうまれた。
患者のこころの痛みは、同様の痛みを知っている医師にしか治せない。
ライヒはもはやつめたく感情をつき放した客観的な分析家ではあり得なく、その場にいあわせて共に苦悩するひとりの観察者になった。
ライヒが三〇年代に開始した「性格分析的ヴェジトセラピー」は、それまでの精神分析の枠組みから大きく踏みだしていくものであった。
精神分析上の二大タブー、すなわち患者に直接触れるタブーと服をぬいだ患者を診るタブーをあえて実践したのだ。


(金子遊)