シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ある遭難者の物語 ②

johnfante2008-08-11


1〜2日目


2月28日の第1夜を長く感じさせたものは、何事も起こらなかったことであった。
ルイスは1分ごとに時計を見た。
喉の渇きも空腹もなく、翌日飛行機がくるまで堪えられる自信はあった。救命筏はコルク材の格子板ででき、白いペンキで防水をほどこした布地が裏打ちしてあった。


2日目の11時50分、水平線上に金属の点が現われた。それは輝かしく、スピードがあり、まっすぐ筏の方へやってきた。ルイスは立ち上がり、あわてずにシャツを脱いだ。
死に物狂いでシャツを振った。それはずっと高度を通り過ぎていった。
12時35分、2機目がやってきた。
空は晴れ渡り、操縦室から顔を出し、黒い双眼鏡で海上を調べている男の顔がはっきり見えた。パナマ運河地域の沿岸警備隊の飛行機だった。ルイスは、自分は発見されたと喜んだ数時間待っても何も起こらなかった。5時になり日が沈んでも、ルイスはまだ希望を捨てていなかった。


3〜4日目


3日目、いつも同じ方向に進んでいるか知るために、筏の一方の端に櫂をとりつけた。
次に持っていた鍵で、筏のふちに一日が過ぎるごとに線で印し、日付をつけた。飲まず食わずで考える事も嫌だった。
皮膚は太陽に焼け、水疱だらけで、ひりひりした。4日間の渇きで呼吸不可能であり、喉と胸と鎖骨に激しい痛みを覚えた。


毎日、驚くべき正確さで、夕方5時になると鮫がやってきた。
魚が水面から飛び上がったと思うと、次の瞬間には、ずたずたに引き裂かれ、猛り狂った鮫たちが血に染まった。
海面をめがけて馳せつけた彼らは襲ってこなかったが、白い筏だったので強く引きつけられていた。
鮫は近眼なので白いものと光るものしか見えないのだ。


4日目の朝、少し海水を飲んだ。海水は渇きを癒してくれないが、元気を出させてくれる。
できるだけ遅らせてきたのは、この次はもっと少なめで、何時間も経った後でしか飲めないことを知っていたからである。
夜、約30キロのところを点滅している船の灯が、風と同じ方向に進んでいるのが見えた。ルイスは必死に漕いだ。
20分後、灯はすっかり消えうせた。ルイスは櫂を放り出し、夜明けの冷たい風に打たれ、数分間狂人のごとく喚き立てた。


5日目


5日目の昼間、太陽と飢えと渇きでぐったりして、筏の底にころがり、数時間首まで水に浸かっていた。
時間の観念も方向感覚もなかった。感覚についての意識が全然なくなるときがきた、と思った。
筏に体を縛り付けるという最後の手段が残っていた。胃が激しくよじれた。ズボンを下ろして排便するとすっきりした。
5日間で初めてのことだった。便に白く光る魚が群れてきた。それを見ると、飢えが募った。何度も櫂をうちおろしたが、無駄だった。


7羽の鴎が筏の上空を飛んでいた。ルイスは激しい喜びを覚えた。鴎の存在は陸地が近いことを意味していた。
一羽がルイスの膝の傷をつつきはじめた。手をひっそりと滑らせた。
「鴎は船乗りにとって陸地を見るのと同じようなものだ。海の男が鴎を殺すなんて恩知らずな行為だ」と兵器班長の言葉がよみがえった。
ルイスは鳥の頭を握りしめ、首をねじった。生温かい血が指の間を伝って流れた。
それは魚たちを刺激し、鮫の白く光る腹がすれすれに通り過ぎた。ルイスは震え上がり、鴎の首を投げてやった。大きな魚たちがそれを奪い合った。


羽根をむしろうとしたが、皮膚にしっかりと付着しているので、肉が血だらけの羽根と一緒にとれてしまう。
ピンク色をした腸と青い臓物を見ると吐き気を催した腿肉を一本口に運んだが、飲み込めなかった。
釣りえさになるかと思ったが、ベルトで釣り針はつくれなかった。
鴎の死骸を海に放り出し、横になり死のうと思った。


6〜7日目


6日目の夕方、時間通り鮫が集まっていた。喉の荒れ方はひどく、顎は使わないために痛んだ。
ズボンのポケットに店でもらったボール紙のカードが入っていた。それをちぎり、口に入れ、噛みだした。
ガムのようだった。どろどろになった紙のかけらが、胃袋まで下りていくのが分かった。
ルイスは塗れた衣服を脱ぎ、パンツ一枚になった。その夜は長い時間ぐっすりと眠った。


漂流第7日目の朝。手づかみで何度か魚を捕まえかけたが、すばやく逃げられた。
ある魚が餌に食いつくようにルイスの指を噛み、血が流れた。筏のまわりが鮫たちの乱闘で騒然となった。
彼らは魚を追い、イルカのように飛び上がり、筏縁のそばで貪り食っていた。ルイスは櫂をつかんでいた。
鮫の一匹が筏のなかに飛びこんだ。いや、50センチばかりの魚だった。ルイスは渾身の力をこめ、頭上に一撃を加えた。
血が筏の水を黒っぽく染めた。鮫どもが筏底にぶち当たってきた。
鮫たちの攻撃を受けるたびに、筏のバランスをとるという難しい作業に従事した。


飢えと荒海


魚は堅い鱗の皮に保護されていた。尾ひれを踏みつけ、櫂の先を鰓に突き入れた。
鰓の下に隙間を見つけ、指で腸をとりだしてから、ひとかじりしたが歯が立たない。生魚の匂いにむかつきながら、噛んだ。
最初の一切れで体が楽になった。2口目でもう満腹の気分になった。飢えはたちまち収まった。
魚を新鮮に保つために、筏底に置いておくことにした。血を洗おうと水に沈めたとき、鮫が獲物を持ち去った。
ルイスは絶望と怒りで狂人のごとくになり、櫂をつかみ、筏縁を通った鮫の頭を思い切り殴りつけた。
猛魚は飛び上がった。鮫は振り向き、櫂を荒々しくひと齧りし、真ん中から食いちぎり飲み込んでしまった。


その7日目の夜、風が吹き、海が荒れた。
ルイスはベルトを解き、格子板の綱にしっかりとつなぎ止めた。波は筏縁に襲いかかり続けていた。
救命筏が荒海で転覆するのは当然なことである。格子板に自分をつなぎ止めている限り、何度ひっくり返ろうと筏を見失う危険はないと考えた。
最初の転覆から15分後、筏は完全にひっくり返った。息が詰り、両手でベルトを捜し、バックルを外した。
肺が破裂しそうだった。両手で筏縁にしがみついた。
数時間前、鮫が群がっていた海に入っていることを思うと身の震える思いだった。