シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『魂と体、脳』 西川アサキ著

johnfante2012-02-16

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)


西川アサキの『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』を読んだ。日経新聞の書評で、竹内薫氏が「著者を「デカルトの再来」と形容したら褒めすぎだろうか。しかし、それくらい衝撃的だ」と激賞している。また、古谷利裕氏の「偽日記@はてな」でも、散々取り上げられており、世評が高まっている様子だ。彼は古くからの友人なので嬉しい。個人的には浅田彰の『構造と力』、東浩紀の『存在論的、郵便的』に匹敵するくらいの衝撃作ではないかと思っている。


最後まで通読してみた感じでは、平明に書かれていてドキドキする哲学本という印象だ。たしかに本書を一瞥すると、人工知能のなかに「私」を発生させるため、筆者が理化学研究所での研究で使ってきた理系的シミュレーションの図表が頻出しており、文系の私などは恐れおののいてしまう。しかし「講談社選書メチエ」という枠のおかげもあるのか、文章中に数式などは一切なく、通常の哲学本としてスラスラ読めてしまうのだ。読者諸子よ、おそるるなかれ! むしろ、これらシミュレーションの図表を提出し、それへの注釈として思考が深まっていくところにふしぎな味わいがあり、ハマるとクセになる感じである。


本書が凄まじいのは、多くの人が哲学的な「概念」にすぎないと思っていたものを、実際の脳や意識で起きていること、そして「私」という「同一性」の発生に当てはめてみたことである。これは師匠である、郡司ペギオ幸夫の著書の読後感に似ている。しかし、似ていないところも多々ある。西川アサキが召喚するのは、ライプニッツの『モナドジー』であり、ベルグソンの『物質と記憶』であり、ドゥルーズの『襞』『シネマ』である。


モナドには窓がない」という言葉の通り、著者が描出する宇宙の一切をあらかじめ含んでいるモナドジーというのは異様な世界観なのだが、それを逆説的に真に受けてみたらどうなるか。どうやら、そこまではドゥルーズが『襞』で試みていることなのだが、本書はその先へ進んでしまう。身体の各部位、脳の各部位を言わばモナドに見立てて、そこでどのようなことが起きていれば、私の身体からクオリア=意識が生まれるのか。「私」がずっと一定にあるという感じは、どのような複雑なシステムで発生してくると考えられるのか。著者はそれを不確定なモナドたちが織り成す反応と、実体的紐帯、そして「中枢の発生」というモデルやシミュレーションで解析してしまうのである。


たしかに、この理論書が書いていることが、科学的に立証される日が来るのかどうかは分らない。重要なのは、この研究がロボットの人工知能に「私」という機能を付与するために成されている、非常に実際的な研究だということだろう。さらに「こんなところまで分ってしまっていいのか」という、神の何かに触れてしまったのような恐怖感が本書にはある。そのような意味では、文学的ですらある。また、本書では基本的に脳のネットワーク、身体のネットワークから、どのように「心」という中枢が生まれてくるかが問題とされている。だが、著者はそれが経済における「貨幣」や、集団における「権力」の発生と同じシステムを持っているという書き方をしている。これは目からウロコであるし、ドゥルーズ的であると感じた。ドゥルーズの哲学がもっともっと精緻化され、いつか本当に人工知能に「私」を生みだすのではないか、と思わせるスリリングな書物なのである。



日本経済新聞書評 竹内薫 現代科学で哲学の難問を斬る