シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

フリーダム・ライターズ ③

johnfante2007-07-13

The Freedom Writers Diary: How a Teacher and 150 Teens Used Writing to Change Themselves and the World Around Them

The Freedom Writers Diary: How a Teacher and 150 Teens Used Writing to Change Themselves and the World Around Them



右写真はエリン本人と、映画でエリンを演じたヒラリー・スワンク

クラスが一つに


ロングビーチは移民都市であった。ギャングスタの暴力と人種対立が大問題になっていた。
一人の生徒は「宣戦布告なしの戦争の下」に生きている感じがすると書いていた。生徒たちが教室にいないとき、彼らが事件に巻き込まれはしないかといつも心配だった。
エリン自身はゲートで守れた郊外のコミュニティで育ったので、それらの都市問題とは無縁であった。彼女自身、生徒たちに教えられるところもあった。


あるとき、教室では目立たなかったラティーノのミゲルが、自分が書いた日記を朗読したいと言い出した。
貧しい不法移民のミゲル母子は、アパートから追い出されて路頭をさまよっていたのだ。
「家もお金もないのに、どうして学校などへ行くのか? 服もボロボロで笑われると思ったけど、ここにくればクラスのみんながいることに気づいた。そしてグルーウェル先生が希望を与えてくれた。ここが僕の家なんだ」
203教室が一つになった瞬間だった。
かつては喧嘩ばかりしていた黒人のシャラウドも、ラティーノのティコも涙を流し、ミゲルと肩を叩き、抱きしめあった。


だが、エリンの熱意が高じるにつれ、キャンベル先生ら学校側との対立が深まっていった。
エリンが受け持った生徒たちは、高校の教職員からは「どうせドロップアウトする者」と見なされていた。
知的で高レベルの本を読むとは思われていなかった。
いったん、生徒たちの興味をつかんだエリンは、英語の教科で文法や読解ではなくテーマに重点を置いた。
大きなテーマは他者に対する「寛容性」であった。
授業で「アンネの日記」を読んだとき、生徒たちは、現在も生存しているミープ・ヒース(Miep Gies)という、アンネ・フランクをかくまった女性へ手紙を書いた。
そして、生徒たちの方から言い出して、ダンス・パーティを開くなどして寄付金を集め、オランダから彼女をウィルソン高校へ招いて話を聞いた。一年前では考えられないことだった。


The Freedom Writers Diary (Movie Tie-in Edition): How a Teacher and 150 Teens Used Writing to Change Themselves and the World Around Them

全員が奇跡の卒業

 

あるとき、コンピュータ会社の社長が、エリンの203教室に35台の中古のパソコンを寄付してくれた。
エリンは生徒たちが書いた日記を、彼ら自身の手でパソコンに入力させ、一人一冊の本を作るプロジェクトを開始した。
いったんコンピュータが導入されると、それまで触ったことすらなかった生徒ですら、自発的にエリンの教室に居残り、放課後は夜になるまで残りたがった。
ほとんどの生徒の家にはコンピュータがなかった。そのため、エリンは帰宅できるのはしばしば夜11時のような時間帯になった。夜は危険な地域であったから、エリンは自分の車で生徒を家へ送ったりした。


エリンは自分の家族をさまざまなイベントに招くことにした。
家族と共に過ごすことの大切さを、身をもって示すためだった。エリンの父と弟は、203教室で行われるプロジェクトにおける重要人物となった。
生徒はエリンのことを「ミスG」と呼び、彼女の父親のことを「パパG」と敬意をこめて呼んだ。
生徒の母親たちも少しずつ参加するようになり「マムたちのドリーム・チーム」と呼ばれるようになり、現在でもそう呼ばれ続けている。
エリンは新米なのでジュニアとシニア(高校2、3年生)は教えられない規則だった。エリンは自分の生徒たちと離れるわけにはいかないと校長らに訴えたが、キャンベル教科長らの猛反対にあった。
しかし、最終的にはロングビーチの教育委員長の英断で「生徒たちの目ざましい成績向上という成果をあげたため」に、特別に生徒たちが卒業にいたるまで担当することを許可された。 


全員が奇跡の卒業


エレンが担当した150人の「フリーダム・ライター」たちは、こうして全員がドロップアウトせずに高校を卒業することに成功した。
そのうちの多くは大学への入学試験を受けた。
最初、別人種の隣に座って言葉を交わすことすら恐れ、人種ごとに机と椅子を寄せ合い、わかれて座っていた生徒たちが、卒業するときには家族のようになっていた。
98年、エレンはウィルソン高校をやめて、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校の講師になった。将来教員になる人たちのために、自分の経験から学んだことを伝えるためだった。
人種や貧困などの状況のために、不利な条件に置かれた生徒をいかに救済するか。
その方法をさらに広めるために、フリーダム・ライター協会を設立。アメリカ中にフリーダム・ライターのメソッドを広めるために、日夜努力を惜しまないでいる。


99年、生徒たちが書いた日記が本となって出版された。
副題は「150人の生徒がいかにして自己と周囲の世界を変えるために、ライティング・スキルを用いたか」。 
フリーダム・ライターズとエリンは、現在も家族のように親しく過ごしている。
多くの生徒は大学を卒業し、そのなかの30人はエリンが設立した「エリン・グリューウェル基金」の奨学金を得て、カリフォルニア大学ロングビーチ校(名門校)に通った。現在、エリンはその大学で教鞭を取っている。