シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

奄美自由大学 ①

johnfante2007-07-28

奄美―神々とともに暮らす島

奄美―神々とともに暮らす島



上は「奄美自由大学」の仕掛け人のひとり、写真家の濱田氏による写真集。
右は近年の濱田氏の写真作品。


知人に「奄美自由大学って何をするの」と問われると、言葉に詰まることが多い。
新しい旅の形式を希求している試みだけに、一言では説明しづらいところがあるのだ。そこで、あらゆる精神性を抜きにして、今回は起こった出来事だけをここに書きとめておきたい。
案外、このような単純な報告が何かの役に立つこともあるのではないか。以下は徳之島で行われた「2005年 奄美自由大学」にまつわる旅の記録である。


10月27日(木)


奄美大島には1日早く着いた。驚いたのは10月末だというのに、気候の温暖なことである。
JALの機内放送によれば東京との気温差は10度ほどということで、昼間は晴れればTシャツ1枚で過ごせるほど暑い。旅行中は大浜海岸で泳ぐこともできた。
運良く今福龍太氏のご家族と同じ飛行機に乗り合わせたため、事前にいくつかの場所を見てまわれた。


最初に訪れたのは奄美空港からほど近い、節田という集落に住む唄者の里英吉さんである。
英吉さんは今福氏の三味線の師匠にあたる96歳のお祖父さんである。自分で薪も割れば、浜辺の近くに流木や浜に漂着したもので小屋も建てる。
50歳のとき、ふと少年の頃夢中になった秘密基地を思い出してはじめたというが、それが45年も前のことだったと考えるだけで、島に流れる悠久の時間に頭がくらくらする。この時点で私のなかにあった東京時間はすでに瓦解していたのかもしれない。


奄美―太古のささやき


今福氏の家族と写真家の濱田康作氏が英吉さんに挨拶しているあいだ、私は遠慮して少し引いた位置から見ていた。
だが、英吉さんは知らない人間がその場にいることを許さず、鋭い眼光で一瞥をくれ、私にも握手をするようにうながした。
英吉さんの手は長年の演奏活動でマメだらけに見えたが、握ってみるとすっぽりと包みこまれる温かい、しめった手であった。こういう言い方は傲慢かもしれないが、それでやっと私は奄美という土地に初めて迎え入れてもらった気がした。


宿泊地の名瀬に向かう途中で、龍郷町の有良という浜に立ち寄った。
幹が多くわかれ、根を垂れたガジュマルの木が連なり、天然の洞穴をつくる「神の道」を横切って浜に出る。すると、防波堤をはさんですぐ隣に小さな墓地がある。
ロシアの映画監督のアレクサンドル・ソクーロフが、『ドルチェ 優しく』という奄美を舞台にした映画の何シーンかを撮った場所だ。


ドルチェ-優しく [DVD]

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奄美群島に所縁のある作家・島尾敏雄の人生と、その妻で加計呂麻島出身の島尾ミホさんの心情を詩的につづる映画である。
頭に手ぬぐいを巻いた女性が、隆起珊瑚の突きでた波打ち際で身滌のような行為をする印象的なショットも、島尾ミホさんの顔の前で涙のように水滴が跳ねる映像が二重写しになるラストシーンも、有良の浜で撮られたのだと『ドルチェ』の映画撮影をコーディネートした濱田氏が教えてくれた。
言われなければ、車で通りすぎてしまうような浜である。
私のように目の利かない人間には、島では濱田氏のごとき「物を見える」ように導いてくれる人が必要なのだ、と改めて実感した。


10月28日(金)


奄美自由大学の初日。
奄美大島の中心都市である名瀬市から、バスで1時間半ほどかかる、南端の港町・古仁屋に着いたときには、総勢50数名の、居住地も、履歴もまったく違う人々が集まっていた。
古仁屋の港から海上タクシーをチャーターして、徳之島の母間港に直接乗りつけようという趣向である。ここで私は奄美自由大学ならではの、とんでもない通過儀礼を経験することになった。


20人乗りと30人乗りの舟の二手にわかれて海に出た。
内海にいる間は対岸に見える加計呂麻島の入り組んだ浦を眺めながら、機嫌よくビールを飲んでいたのだが、そのうちに舟がひどく揺れはじめた。ピッチング(縦揺れ)とローリング(横揺れ)が交互に、昼に食べた鶏飯とビールでふくれた腹をこねくりまわす。
波の谷間にはいると、後ろからついてくる舟の姿が高波で見えなくなる。胸のむかつきと手の痺れをおぼえた私は、舟の後尾にあるトイレに飛びこみ、腹のなかにあったものをすべて吐きだした。徳之島に到着するまで2時間近く、一歩もトイレの外へでることはなかった。


日が暮れかかる頃、12台のレンタカーからなるキャラバン隊は、線刻石群をみるために母間の山をのぼっていった。
縦横3メートル大の石が、空から見れば海へむかって直線になるように4つ並んでいる。ストーンサークルの一種と言ってもいい。私が見た石には矢らしき線刻画が描いてあった。
古い時代には徳之島じゅうのノロ祭政一致時代の女性司祭)たちが集まり、石の前で豊年祈願の祭りがなされたと伝承されている。
石は現在もノロの末裔によって祀られているが、線刻画がいつの年代のものなのかはいまだ謎に包まれている。
浅野君という人類学者の卵は家族連れで参加していたのだが、彼が赤子を抱いたまま、懐中電灯を片手に線刻画に見入っている姿が強い印象を残した。



※この旅の後、里英吉氏と島尾ミホ氏は鬼籍に入られた