シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

クアトロ・ディアス

johnfante2007-11-02

クアトロ・ディアス [DVD]

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米国大使誘拐事件


リオデジャネイロ郊外にある住宅街の一軒家。
南回帰線下の陽光が雨戸でさえぎられた闇の一室に、米国大使チャールズ・エルブリックが監禁されている。チェ・ゲバラの命日にちなんでNR-8(10月8日)と名づけられた革命組織のメンバーが、交代で大使の見張り役をしている。
眼前に死を突きつけられた大使にとって、黒覆面をしたテロリストたちの短銃をにぎる手だけが、唯一何か人間臭いものを感じさせるものだ。赤ん坊のような肌をした未成年者の手が、ホーチミンの獄中記を差しだす。銃になじんだ農民の手、大使の頭の傷に包帯を巻いてくれる少女の手、青年ギャング団のなかの老吸血鬼の手。
自分ではフードを被らず、逆に大使に目隠しをしてくるのはフェルナンド・ガベイラの手だ。視界を奪われた大使がコップの水に手をだす。すると、ガベイラがそれを助けて大使の手中にコップを滑り込ませる。

フェルナンド・ガベイラ


軍事政権下に政治犯の釈放を求めて起こった、1969年9月の米国大使エルブリック誘拐事件を克明に描いたのが、ブルーノ・バレット監督の『クアトロ・ディアス』だ。
事件の当事者であったガベイラの小説をオリジナルにしているため、テロリストの生態がリアルな感触で描写されている。NR-8は革命の夢を見る中流階級の青年で構成された素人軍団であった。
奇妙なのは、若きテロリストたちの愚かとも云える振る舞いにもかかわらず、彼らの生が充溢し、そしてエロティックな輝きを放っているということだ。大使と青年ガベイラの「手の交感」の様子がその輝きの一例である。



映画『クアトロ・ディアス』


テロリズムと生の強度


諜報部のエンリケは、青年革命家たちに拷問を加えたことの呵責から不眠症に悩まされている。
政治犯釈放の夜、諜報部の同僚が、テロリストの娘マルタと結婚した元同僚ペサーニャ軍曹について訊いてくる。エンリケは答える。
「軍曹は拷問される者たちに未知の情熱を見つけた。彼はパンドラの箱を開けて混乱したんだ」と。パンドラの箱、それは禁を犯して開ければありとあらゆる災厄を飛びださせ、慌てて閉めれば掛けがえのない希望を封じ込める、という物語である。


テロティシズム(テロリズム+エロティシズム)


銃を手に見張る者(ガベイラ)と監禁される者(大使)、拷問する者(諜報部員)と拷問される者(テロリスト)。その人間関係にあっては、生の交流と強度こそが問題とされている。
テロリズムがもたらす人間と人間の極限的な関係が、ごく歪んだ形をもってだとはいえ、生の強い交流を可能とする。見逃してはならないのは、その交流にエロティシズムの霧が濃く立ちこめるということだ。
テロリストと他の人物の関係には生の強度の落差があり、その落差を埋めようとするときエロティックな情念が発露される。
諜報部のエンリケが若きテロリストたちに見いだした「未知の情熱」とは、彼の属している秩序を脅かす、生の強度の過剰さであったのだろう。
そのように考えてはじめて「パンドラの箱」の意が明らかとなる。
つまりテロリズムを行使すれば、人々の生は危殆に瀕するほかないが、それを禁圧すれば人々のあいだの深い溝を解消しようとする希望の企てが封印されることになるのだ。



初出:「発言者」


(金子遊)