シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

潜水服は蝶の夢を見る ②

johnfante2008-01-29

リハビリの日々


ある運のいい日、二度の咳の発作のあいだに、ジャンは力を取りもどして、いくつかの音素を発することができるようになった。さらにサンドリーヌは、ジャンの誕生日の日までに、すべてのアルファベットが発音できるように訓練してくれた。
サンドリーヌとジャンは訓練の合い間に、家族に電話をかけるようになった。8歳の娘セレストは、ポニーの背に乗った話をしてくれる。妻のフローレンスは、ジャンが送話器にむけて息をするまで、話しだすのを待ってくれるのを待ってくれた。


ジャンが車椅子に乗せてもらえるようになった。父の日に家族が見舞いにやってきた。10歳の息子テオフィルは、紙ナプキンを使って、ジャンの唇から流れ出る涎をそっと拭いてくれた。セレストはジャンの頭に抱きつき、キスの雨を降らせた。
家族に会うたびに、ジャンの気持ちは、子供たちの生き生きとした姿を見る喜びと、子供たちに病院の陰惨な光景を見せてしまうことの不安の間で引き裂かれた。
妻は浜辺ではしゃぐ子供たちを見ながら、何も言わずにジャンの手を握った。サングラスの下で、彼女は砕け散ってしまった家族の暮らしに、声もなく涙を流していた。



潜水服は蝶の夢を見る」出演者インタビューなど


手紙と本を書き出す


ある日、ジャンはパリへ診察のために旅をした。「ELLE」の編集部があるウルトラモダンなビルの前を、救急車が通ったとき、ジャンは前庭に見覚えのある顔を何人か見た。10年間すれ違いながら、名前も知らなかった人たち。ジャンは首をひねって後ろを見ようとした。
もっとよく知っている顔が隠れていないか、目で探した。だが、誰も見当たらなかった。ジャンは何粒か涙をこぼした。ジャンは人に知られず、泣くことができた。周囲からは、ただ目の具合が悪いのだろうと思われるだけだから。
「何も変わっていはしない。ただ僕だけが、いない。僕だけが、ここに、いない」とジャンは思った。


ジャンの新しい人生が始まってから半年。6月8日のこと。ジャンは友人や親戚に向けて、60通の手紙を出した。そこには、ジャンの日常やリハビリの進行について書いた本を出版しようと思いついた、と書かれてあった。
これはパリにちょっとした騒ぎを起こした。「ボービーは完璧な植物人間になったらしいぜ」と、心無い噂話をする連中もいたが、ジャンは気にしなかった。
サンドリーヌらの力を借りて、ジャンは潜水服の中から手紙の発信を始めた。心のこもった返事が寄せられ、ジャンは丁寧に読んだ。
「いつの日か、その手紙全部を貼り合わせ、一キロにもわたる紙のリボンにして、空に掲げてみたい」と願うようになった。ハゲタカたちも、それらを見たら逃げていくに違いないだろうから。


エッセイの執筆


そして、ジャンは後に一冊にまとめられることになる、28の短いエッセイを書き始めた。その作業は96年6月から7月にかけて、クロード(これは名字で、女性と思われる)の手を借りて行われた。クロードは書き取った文章を読み返してくれる。
ジャンは耳を傾けながら、クロードの褐色の髪、白い頬をひと夏のあいだ、そうして見つめていた。それから、彼女は一ページずつ、几帳面な字で埋めていった。


出版元から派遣された編集者は、事前にジャンの状態について説明を受けていた。しかし、彼女は初めて会ったときにうろたえてしまった。
そんな彼女を励まし、ジャンは「パニックにならないで」とまばたきで語りかけた。編集者の女性は、ジャンがいかにユーモアに富み、文章をすべて暗記していたかと雑誌記事に書いている。
「僕の潜水服を開ける鍵は、あるのだろうか? とにかく、探してみなくてはならないのだ。ならば、僕は行こう。そこへ。」という文で、ジャンの「潜水服と蝶々」という本を締め括られた。


プロローグ


リハビリも順調に進んでいた1997年の3月9日、感染症による合併症のために、ジャンは突如として逝ってしまった。フランスで本が発売された、わずか2日後のことだった。
友人たちは彼に、愛用していたリーボックのスニーカーをはかせ、ラルフ・ローレンのセーターを着せて、最後の別れを告げた。ふたりの愛児、テオフィルとセレストも立派にお父さんに「さよなら」を言ったという。


ジャンの書いた「潜水服と蝶々」はフランスで14週間、イギリスで6週間ベストセラーリストの1位となった。そして28ヶ国語に翻訳された。
フランスのテレビ局「フランス2」は、ボービーの様子をドキュメンタリーで撮った番組を放送したという。